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ナタリー・サロート『子供時代』訳者解題(text by 湯原かの子)

 2020年7月27日、幻戯書房は海外古典文学の翻訳シリーズ「ルリユール叢書」の第10回配本として、ナタリー・サロート『子供時代』を刊行いたします。サロートの邦訳作としては44年ぶりの刊行です。
 ナタリー・サロートは、フランスの小説家(Nathalie Sarraute 1900-1999)。今年はサロート生誕120年にあたりますが、1950年半ばから60年代にかけて登場した〈ヌーヴォー・ロマン〉の代表作家として知られています。『トロピスム』『見知らぬ男の肖像』など、人間心理、内面下、言語の未生にこだわり、それらを執念く表現し続けてきたサロート。本書『子供時代』(Enfance、1983)は、伝記とも回想ともつかぬ、まったく新しい「反-自伝小説」として実験作であり、サロート円熟期の小説作品となっています。

 以下に公開するのは、訳者・湯原かの子さんによる「訳者解説」の一節です。

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ナタリー・サロート『子供時代』訳者解題(text by 湯原かの子)


『子供時代』における「想起」の方法
 前置きが長くなったが、こうして内なる声である対話者は、ときには過去の想起を促しつつ反省意識としてはたらきかけ、ときには深層意識の中に埋もれていた形をなさないものを意識の上に浮きあがらせる役割をはたしていく。そしてソクラテスの対話のように自問自答を繰り返すことで、深い自己省察と自己分析が可能になり、意識の下でうち震えているイマージュや感情、忘却の彼方に押しやられていた内奥の感覚や記憶が喚起され、心に浮かぶままに綴られる。つまり、サロートが『子供時代』で試みているのは、トロピスムによる子供時代の思い出の想起、というまったく新しい伝記的作品といってよいだろう。
 ちなみに、原題のフランス語 Enfanceの語源のラテン語infansには、「まだ話すことができない者」の意味がある。それは「印象と感覚の間を漂っている時期であり、この漠然とした状態の中で子供は言葉を習得していくのだ」、とモニック・ゴスランは『子供時代』の解説書のなかで指摘している[★01]。
 また、サロートはアルノー・リクネーとの対談で、『子供時代』のなかで想起される、幼いナタリーが初めて書いた拙い物語に話題がおよぶと、こう述べている。

どんな子供も、詩人にならないまでも、こんなふうに言葉で戯れるものだ。〔…〕言葉は子供にとっては玩具のようなものなのだ[★02]。

 この述懐は、サロートが幼い頃から言葉に強い関心を抱いていたことを、よく示している。
 さて、『子供時代』のなかで話者が語る思い出は、まずは幼い頃に父と休暇を過ごしたホテルの一場面、すなわち養育係の制止を振り切って、ハサミでソファーの背を切り裂くと、なかから「もこもこした灰色がかったもの」――これは意識下に埋もれていた思い出のメタファーである――があふれ出てくる、という印象的なシーンから始まる。
 そうして、美しい母への絶対的な思慕、その母と再婚相手コーリャとの仲睦まじさを目にして感じる疎外感、父の再婚相手でナタリーの継母になるヴェラとの確執、義理の妹リリィをえこひいきするヴェラや召使いたちとの葛藤にみちた日常生活、父との深い絆、家庭の外や自然の中で感じる開放感…などが想起される。理不尽な状況で子供時代を生きたサロートは、その頃味わった言葉になる以前の感情、もやもやと曖昧だったイマージュや記憶を甦らせ、反芻し、検証し、言葉を与え、表現する。そうして言語化することによって、過去を自己のなかに再統合し、受容していく。
 と、こう書くと、いかにも心理分析か精神分析じみるのだが、サロートは前述のリクネーとの対談で、こう述べている。

伝記はつねに誤っている。私はフロイトのことはあまり好きではないが、彼がそう主張しているのは正しい。伝記において、人はいくつかの事実を強調し、他の事実をないがしろにしてまでそれを膨らませる[★03]。

 こうして、自分の生い立ちを両親の離婚に過剰に注目して解釈をされることに、予防線を張っているのである。
 また他方で、サロートはいわゆる「心理 psychologie」と、「心神 psychique」――思考・感情・意識・無意識を包含する精神領域――とを区別している。そして心理分析が「さまざまな感情を分析し、〔…〕レッテルを貼る」のに対し、「心神的生命(la vie psychique)は定義できず、すでに作られたカテゴリーに分類できない」と語っている。フランス文学において心理分析は得意とするところであり、それによって人物造型や性格描写をしてきたが、一方、サロートが探求し表現しようとしているのは、従来の文学にとっては未知なる精神領域、すなわちトロピスムなのである。
 さて、『子供時代』に話を戻そう。「私」の回想はやや唐突に、リセでの新しい人生が出発する時点で打ち切られる。そして最後の文章は、冒頭の「もこもこした灰色がかったもの」という表現に対応するように、想起されなかった思い出は、「白っぽくもこもこした〔…〕真綿のキルティング」から自らの力で抜け出てくるだろう、という表現で結ばれる。


【注】
★01─Monique Gosselin, Monique Gosselin commente Enfance de Natalie Sarraute, p.21, folio, Gallimard, 1996
★02─Arnaud Rykner, Nathalie Sarraute, p.177, Seuil, 2002.
★03─Arnaud Rykner, Op. cit., pp.177-178.
【目次】

子供時代

   ナタリー・サロート[1900–99]年譜
   訳者解説
【訳者紹介】
湯原かの子(ゆはら・かのこ)
上智大学仏文科卒、九州大学大学院、上智大学大学院を経て、パリ第4大学博士号取得。評伝作家・翻訳家。著書に『カミーユ・クローデル 極限の愛を生きて』(朝日新聞社)、『ゴーギャン 芸術・楽園・イヴ』(講談社)、『藤田嗣治 パリからの恋文』(新潮社)、訳書にテレーズ・ムールヴァ『その女の名はロジィ ポール・クローデルの情熱と受苦』(原書房)、デルフィーヌ・ド・ヴィガン『デルフィーヌの友情』(水声社)など。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、『子供時代』をご覧ください。