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イボ・アンドリッチ『イェレナ、いない女 他十三篇』訳者解題(text by 山崎佳代子)

 2020年10月22日、幻戯書房は海外古典文学の翻訳シリーズ「ルリユール叢書」の第13回配本として、イボ・アンドリッチ『イェレナ、いない女 他十三篇』を刊行いたします。イボ・アンドリッチ(Иво Андрић 1892–1975)はセルビアを代表する詩人・小説家として知られ、1962年、ユーゴスラビア(当時)の作家として、ノーベル文学賞を受賞しています。第一次世界大戦、第二次世界大戦の歴史を体験するなかで、世界の火薬庫たるバルカン半島の歴史の闇を見つめ続け、大国に翻弄される小国の民族や言語、宗教をつなぎ合わせる「橋」の哲学を、自作の文学で表現し続けた作家です。本書は、そうしたアンドリッチを象徴する「橋」というエッセイに始まる精選作品集となっています。また、本書と同時刊行をしました、『山の花環 小宇宙の光』の著者ペタル二世ペトロビッチ゠ニェゴシュについての論考(「コソボ史観の悲劇の主人公ニェゴシュ_」)も収録しています。

 以下に公開するのは、訳者・山崎佳代子さんによる「訳者解題」の一節です。

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イボ・アンドリッチ『イェレナ、いない女 他十三篇』訳者解題(text by 山崎佳代子)

アンドリッチの詩学

 不正義に満ちた世界の不条理の中で、人間はいかに生きるか。アンドリッチ文学の数々のテーマは、この疑問文に集約される。ますます複雑化し世界に広がる資本主義的経済構造、それを支える帝国主義、自らの利益だけを冷酷に追求する大国や資本家……。20世紀初頭、左翼思想が生まれて労働運動が広まり、旧い慣習を破り新しい時代にふさわしい表現形式を求める前衛文学運動が生まれた。とりわけ表現主義はセルビア文学、クロアチア文学に大きな影響を与えている。アンドリッチ文学の誕生の背景には、ツルニャンスキーと同様に、社会革命と文学変革の思想がある。前衛運動が、形骸化した市民社会のモラル、社会の権威、伝統や慣習を否定、人生そのものに文学を近づけようと、新しい表現を模索していた時代であった。

 だが不条理の描き方は、カフカやカミュ、ベケットとは大きく異なる。表現主義など前衛文学運動の影響下にありながら、アンドリッチの文章はつねに簡潔で端正であり、調和のとれた気品ある文体である。アンドリッチ研究の第一人者ラドバン・ブチコビッチは、これはアンドリッチ自身の個性からくるものであろうと考える。川端康成が、横光利一らの新感覚派に関わりながらも、『伊豆の踊子』など清楚な文体を生み出したことを想起させる。

 歴史の不条理を、若きアンドリッチは身をもって体験した。第一次大戦中の思想犯としての獄中生活は、戦争という外的世界を凝視させると同時に、「幽閉された者」の精神的な内的世界へと作家を招き入れる。歴史と魂の問題は、作家の生涯を通じて、詩学を支える二本の柱となった。この詩学の魅力は、新現実主義と形而上主義の両面を持ちあわせ、見える世界と見えない世界を結び合わせる力にある。集団と自我、天と地、魂と肉体、異なる二つのものを引き裂くもの、繋ぎ合わせるものに、作家は光をあてる。アンドリッチの問いかけは、人はどう生きるべきかではなく、人々はどう生きるかという人類的な問題である。後年のノーベル賞作家ペーター・ハントケ(1942‐ )の文学もこの系譜にあるといえるだろう。アンドリッチの小説は、民族の類型を見事に描き出しているが、それは個人ではなく集団の運命に光をあてるためである。そして、どの民族にも、魅力的な人物、おぞましい人物を作り上げ、集団の性格の明暗を描いている。また客観的な視点を確保するため、「外国人の視点」、あるいは「余所者」、「混血」を導入している。

「集団」の運命に取り組んだ理由は、新国家成立後の民族間の憎悪をみずから体験したからにほかならない。それは第一次大戦後に成立した初の南スラブ多民族国家にまず現れ、ファシズムの時代に再び燃え上がっている。だが憎悪を描くとは同時に、愛のありかを求める作業なのだ。作家は人間存在の闇に、一条の光を描き込むことを忘れない。希望は、太陽や橋のモティーフに託され、初期の作品から晩年の作品にいたるまで、丁寧に縫いとられている。

 太陽をはじめ季節の移ろいなど、自然のモティーフは、けっして人を裏切らぬ存在、人を癒す存在として、多くの作品に登場し、象徴的な意味が与えられている。幼少時代から作家の胸に刻まれたボスニアの地の峻厳なる美は、読む者の心に記憶されるだろう。

 アンドリッチの創作期は、三段階に分けて考えることができる。第一期は、第一次世界大戦から第二次世界大戦勃発あたりまでの時期である。サラエボの青年ボスニア党の社会運動から出発、ザグレブとクラコフでの学生生活の後、ベオグラードを出発点にバチカン、マルセーユ、マドリッド、ベルリンなどヨーロッパの都市での外交官生活の中で作品が生まれた。断片を繋ぎ合わせるような幻想的な表現主義的な構成は、歴史に題材をとりプロットが明確な昨品へと変化していく。詩作品には、社会主義的な思想が明確に織り込まれたものがあるが、この時期にのみ現れ、後には消滅する。

 第二期は、第二次大戦中のベオグラード時代。古文書など豊富な歴史資料にもとづく歴史長編小説『ドリナの橋』、『トラブニック年代記』、ベオグラードを舞台とした長編小説『お嬢さん』が書かれる時代である。

 第三期は、戦後のベオグラード時代。社会主義ユーゴスラビアの首都で作家として揺るぎない地位を得て、安定した作家活動を送る中で、数々の短編集を編み、エッセイや論評を数多く著した。

 アンドリッチの文学のジャンルは、多岐にわたる。瞑想的な散文詩集『エクス・ポント(黒海より)』と『不安』、長編小説『ドリナの橋』、『トラブニック年代記』、中編小説『呪われた中庭』や『アニカの時代』などのほかに、「アスカと狼」など寓話的な短編がある。また随筆集『道標』、紀行文や「橋」などのエッセイや評論にも珠玉の文章が輝いている。

結びにかえて

 歴史は、転換期において底知れぬエネルギーを発する。新しい秩序を生み出す創造力とともに、暗い破壊力を持つ。短編「ガルスの熱情と受難」のタイトルが示すように、熱情に満ちた理想の追求は、受難をともなう。歴史の変化は、必ず犠牲を求める。青年ボスニア党のアンドリッチたちの幽閉時代は、「使徒のような喜び」に満ちていたとバルトゥロビッチは述べて、そこに宗教的なものを見出している(Andrić 1918:8-9)。

 アンドリッチは、歴史資料に基づいて民族の類型を生み出し、集団の運命を描き、そこに織り込まれた一人一人の生き様を謡い上げた。繰り返すが、歴史のメカニズムを描くためである。どの民族にも正と負を描き込んでおり、決して特定の民族を卑下したりあざ笑ったりはしない。魅力的な人物は、どの民族にも登場する。注意深さと深い洞察力を持つ読者には、その意図は理解できるだろう。また民族の混ざり合うボスニアには必ず存在する混血の人物や外国人を登場させて、客観的に描写する語りの手法を生み出した。

 アンドリッチ文学の魅力は、ポリフォニーの構造にある。複数の主題が声を重ねながら響き合う。主題は一つ限りではなく、いくつものテーマが繊細に絡み合って成立する。善と悪、地と天、愛と憎悪、老いと死、潜在的な恐怖、嫌悪感。理由なき暴力、性の衝動、自然の美、孤独、幽閉と自由、民族と宗教……。だが深い絶望の中に、希望を書き込むことを忘れない。たとえそれが死後の世界、見えない世界にしか存在しないとしても。深い闇に流れ込む一条の光を、作家は読む者に示している。もうひとつの魅力は、多義性という美しさである。アンドリッチの文学には、数多くの問いが織り込まれている。どの問いも答えは一つだけではない。多義性こそ、私たちの人生そのものであり、世界はそもそも、説明しがたい矛盾に満ちている。人生も世界も、数えきれぬ意味から成り立っているのだから。

 歴史家でもあったアンドリッチが探究する主題のひとつに、宗教と民族の問題がある。本来は同胞である南スラブの民族は、異邦の帝国がもたらした宗教によって、言語も文化背景も同じでありながら、異なる民族意識を形成した。宗教は支配者にとって強力な道具でもあった。中世には、残虐なまでの強制的なイスラムへの改宗も行われ、第二次大戦中は、正教徒やユダヤ人に対してファシズムによる大量虐殺が行われた。宗教が愛や平和をもたらすかわりに、人々の間に憎悪、恐怖、悪を生み、集団の深層心理に組み込まれていく。そうした歴史的状況の中でいかに生きるべきか、いかにして善を求めるか。作家は読み手に問いかける。

 十字架の垂直線と水平線の交わりが示すように、宗教には二つの側面がある。垂直線が示すのは、神と人の対話が示す内なる世界である。水平線が示すのは、地上の組織としての外なる世界である。複数の一神教が混在するボスニアでは、水平線を思い切り伸ばすことができない。

 作家の幽閉体験から生まれた「エクス・ポント(黒海より)」は、神との内なる対話なくしては成立しない。しかし「三人の少年」にみるように、地上の組織としての外なる宗教が生み出す暗さを、作家は見逃さない。アンドリッチの文学は新しい宗教意識を探求していると、ブチコビッチは指摘している(Вучковић 2011: 437-449)。その意識に織り込まれるものは、沈黙、静謐、犠牲、受難、救済、生きる喜び、そして愛である。それを支えるのは、求道者の精神である。地上的なるものが過ぎゆくものであるがゆえに、永遠なる彼岸を求めるという哲学である。

 セルビア文学とクロアチア文学は、それぞれの歴史を背景に独自の発展を遂げたが、アンドリッチが登場する20世紀の前衛運動時代あたりから、相互に影響を与え合い、ユーゴスラビア国家の成立とともに共通の文化圏の中で変容していく。アンドリッチ文学もその文脈の中で形成され、比較文学的な視点なくしては語れない。

 日本の読者には理解しがたいかもしれないが、セルビア語とクロアチア語の差異は大きくなく、翻訳も通訳も必要ない。旧ユーゴスラビアのセルビア語圏では「セルビア・クロアチア語」と呼ばれ、クロアチア語圏では「クロアチア語またはセルビア語」と呼ばれ、一つの言語の二つのバージョンであると考えられていた。ただし文学表現における言語は感じやすい。アンドリッチの言語を見ると、最初クロアチア語的なイェー方言を用いていたが揺れがみられ、ベオグラードに活躍の場を移した1931年あたりからは完全にセルビア語のエー方言で執筆している。アンドリッチが執筆に用いるスタイルは、19世紀から20世紀初頭にかけて都会で形成されたセルビア文章語、「ベオグラード文体」であり、ノビサドで刊行された6巻本の『セルビア・クロアチア語辞典』でも、それをもとに編纂された『セルビア語大辞典』でも、アンドリッチの文章が用例として数多く引用されている。

 20世紀のセルビア文学形成は、アンドリッチの存在なくしては語れない。ツルニャンスキーやイシドラ・セクリッチを初め優れた文芸批評家から高い評価を得て文学活動を展開し、セルビア文学史で重要な文芸雑誌に作品を発表している。

 だがアンドリッチの文学は、ひとつの民族にだけ属するのではない。アンドリッチが第二次大戦後、創作を続けた当時のベオグラードは、多民族の文化活動の中心であった。ユーゴスラビアという一つの文化圏が形成された。アンドリッチは、ベオグラードのみならずザグレブやサラエボの文芸誌にも作品を発表している。アンドリッチは文字通りのユーゴスラビアの作家であった。

 ベオグラードとアンドリッチの絆は、その死後にさらに強められる。アンドリッチの遺言によりベラ・ストイッチ(1902‐88)を初代の理事長として、ベオグラードにアンドリッチ財団が創立された。版権管理にあたるとともに、膨大な資料を保管し、研究機関としても機能している。

 アンドリッチ夫妻のベオグラードの住居は、アンドリッチ博物館となり、家具もそのまま展示され、文学を愛する人たちに開放されている。翻訳家田中一生氏がアンドリッチに宛てた絵葉書もここにある。博物館のある通りの名はアンドリッチ横丁、作家の立像が立っている。また手稿の多くは、セルビア科学芸術アカデミーのアーカイブに収められている。

 アンドリッチの民族アイデンティティーを公式文書で辿ると意外なことが分る。学校時代の書類、外交官時代の公的文書には、「クロアチア人、カトリック教徒」と記入されているが、一九五一年発行の身分証明書の民族の欄には「セルビア」と書かれている(Đukić 2012: 336; 338)。第二次大戦後のユーゴスラビアでは公的文書の民族の欄は自己申請に基づくものであるが、1955年3月11日、作家が自ら記入した共産党入党のための登録票にも民族の欄に「セルビア」と記され(Ibid: 464)、1958年9月27日に提出されたミリツァ女史との婚姻届にも「セルビア」と記されていた(Ibid: 339)。ただしセルビア正教には改宗していない。

 1937年、ツルニャンスキーは復活祭を祝うアンドリッチ宛ての手紙で、(カトリックも正教徒も)「キリストは同じ」だとして、「あなたは我々のうちでただ一人、セルビア人でもクロアチア人でもなく、セルビア人でもクロアチア人でもある人間だと心から信じています」と記した。この言葉こそアンドリッチの本質を示すと、ジューキッチは述べる(Поповић 1992: 121; Đukić : 337)。セルビアの現代作家ボリスラブ・ミハイロビッチ゠ミヒズ(一九二二‐九七)は、「アンドリッチが我々(セルビア文学)を選んだのであり、我々が彼を選んだのではない」と記している (Ibid: 339)。

 アンドリッチは、青年ボスニア党時代からユーゴスラビア主義者であり、第二次大戦中のナチスの傀儡国家クロアチア独立国によるユダヤ人、セルビア人、ロマ人の大虐殺については批判的であった。彼が求めたものは、あらゆる民族を越える普遍的な高い人間性にほかならない。

 アンドリッチ文学は、旧ユーゴスラビアのすべての民族の文学に大きな影響を与えたばかりでなく、世界文学に鮮明な足跡を残した。旧ユーゴスラビア時代は全集がスロベニア語、マケドニア語にも翻訳された。セルビアでは今日でも、国民的文学者として愛されていることは紛れもない事実である。毎年、10月10日には優れた短編作品に「アンドリッチ賞」が贈られ、戦後文学を代表するダニロ・キシュも受賞者の一人であった。

【目次】

 橋

 I 短篇
   アリヤ・ジェルゼレズの旅
   蛇
   石の上の女
   一九二〇年の手紙
   三人の少年
   ジェパの橋
   アスカと狼
   イェレナ、いない女

 II 散文詩
   エクス・ポント(黒海より)
   不安

 III エッセイ
   スペインの現実と最初の一歩
   コソボ史観の悲劇の主人公ニェゴシュ
   いかにして書物と文学の世界へ入ったか

    イボ・アンドリッチ[1892–1975]年譜
    訳者解題

【訳者紹介】
田中一生(たなか・かずお)
1935年、北海道生まれ、2007年東京歿。早稲田大学露文科を卒業後、ベオグラード大学に留学、ビザンチン美術およびユーゴスラビア文学を研究(1962‐67)。訳書に、ウィンテルハルテル『チトー伝』(徳間書店)、クレキッチ『中世都市ドゥブロヴニク』(彩流社)、アンドリッチ『ゴヤとの対話』『サラエボの女』(恒文社)、シュチェパノビッチ『土に還る』(恒文社)、カラジッチ『ユーゴスラビアの民話Ⅰ』(共訳、恒文社)など。

山崎洋(やまさき・ひろし)

1941年、東京生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1963年よりベオグラード大学留学、1970年、同法学部修士課程修了。訳書にカルデリ『自主管理と民主主義』(大月書店)、コーラッチ『自主管理の政治経済学』(日本評論社)、カラジッチ『ユーゴスラビアの民話Ⅱセルビア英雄譚』(共訳、恒文社)、ミハイロヴィッチ『南瓜の花が咲いたとき』(未知谷)、ヴケリッチ『ブランコ・ヴケリッチ 日本からの手紙』(未知谷)など。

山崎佳代子(やまさき・かよこ)

1956年、静岡生まれ。北海道大学露文科卒業後、1979年サラエボ大学文学部留学を経て、1981年よりベオグラード在住。ベオグラード大学文学部で博士号取得(『日本アヴァンギャルド詩 セルビア文学と比較して』)。現在、ベオグラード大学文学部教授。詩集に、『みをはやみ』(書肆山田)など。著書に、『解体ユーゴスラビア』(朝日選書)、『ベオグラード日誌』(書肆山田、読売文学賞)、『パンと野いちご』(勁草書房、紫式部文学賞)など。訳書に、ダニロ・キシュ『若き日の悲しみ』『死者の百科事典』(東京創元社)『庭、灰』(河出書房新社)など。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、『イェレナ、いない女 他十三篇』をご覧ください。