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テーオドール・シュトルム『従弟クリスティアンの家で 他五篇』訳者解題(text by 岡本雅克)

 2020年1月24日、幻戯書房は海外古典文学の翻訳シリーズ「ルリユール叢書」の第5回配本として、テーオドール・シュトルム『従弟クリスティアンの家で 他五篇』を刊行いたします。
 本書に収録された6篇は、叙事性と心理分析に重きが置かれた、シュトルムの創作活動の第2期に属す作品群という共通項があります。『従弟クリスティアンの家で』『三色すみれ』『人形つかいのポーレ』『静かな音楽家』というシュトルムの名作といわれる4つの短編作品に、シュトルム文学のなかで特異な位置を占める重要な作品ながら、これまでほとんど翻訳されてこなかった『荒野の村』『森のかたすみ』の2つの短編作品を加えた構成内容で、かつての翻訳を一新した、新しいシュトルム像が垣間見える短編小説集となっています。
 以下に公開するのは、訳者・岡本雅克さんによる「訳者解題」の一節です。

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テーオドール・シュトルム『従弟クリスティアンの家で 他五篇』訳者解題(text by 岡本雅克)


 テーオドール・シュトルムは、まず抒情詩人として創作活動を開始したが、30歳の時、最初の小説『マルテと時計 Marthe und ihre Uhr』を書いた。2年後、彼の代表作となる小説『みずうみImmensee』を発表し、その後、『ヴェローニカ Veronica』、『大学時代 Auf der Universität』、『聖ユルゲン養老院 In St. Jürgen』、『水に沈む Aquis submersus』などの小説を発表し、70歳の時、最後の小説『白馬の騎士 Der Schimmelreiter』を書いた。彼は生涯で60もの小説を書き、シュティフター[★01]、ケラー[★02]、ラーベ[★03]らとともにドイツリアリズム文学を代表する作家の一人に数えられる。舞台を故郷の厳しい自然と市民世界に限定しながら、普遍的な人間的本質を描いた彼の文学は、郷土文学の最高峰と目される。

テーオドール・シュトルムの生涯――少年・青年時代[1817‐37]
 ユトランド半島の南部に位置するシュレースヴィヒ・ホルシュタイン地方は、長きにわたりデンマークとドイツの係争の地であった。16世紀半ば以降、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン両公国はデンマーク王家とその分家であるゴットルプ家による共同統治となっていたが、1773年以降、デンマーク王家による単独統治となっていた。しかし、シュレースヴィヒ地方の北部を除いて住民の大半はドイツ系であり、19世紀に入り、民族運動の余波を受けて、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン地方でもデンマークからの独立の気運が高まっていく。

 南シュレースヴィヒ地方の北海に面した小都市フーズムは、14、15世紀には商業都市として栄えたが、大航海時代に入り、ハンブルクが主要な港となるにつれて衰退し始め、19世紀初頭には、高さ95メートルの塔が聳えていたマリーエン教会が取り壊され、豪商たちの館もしだいに姿を消しつつあった。この小都市フーズムで、1817年9月14日、ハンス・テーオドール・ヴォルトゼン・シュトルムは弁護士ヨハン・カーズィミール・シュトルムとその妻ルーツィエ・旧姓ヴォルトゼンの第一子として生まれる。父カーズィミール・シュトルムはレンツブルク近郊のヴェスターミューレン出身で、シュトルム家は代々粉屋を営んでいた。1815年、カーズィミール・シュトルムはハイデルベルク大学とキール大学で法学を学んだ後、弁護士としてフーズムに赴任し、翌年、市参事会員であったズィーモン・ヴォルトゼンの末娘と結婚した。

 シュトルムは4歳の時、アムベルク夫人の予備学校に入学し、9歳の時、フーズムのラテン語学校に編入する。当時のフーズムのラテン語学校について、シュトルムは後にこう回想している。

故郷の町の古いラテン語学校では、ドイツ文学についてあまり知られていなかった。……たしかに私たちはシラーも読んだ。その戯曲を静かな干草置き場や屋根裏部屋で貪るように読んだ。また、ある時、古いゲーテの詩集が回読されたこともあった。しかし、生きたドイツの詩人が存在することや、ビュルガーやヘルティーとはまったく違った感銘をあたえるような生きた詩人が存在することなど、17歳の最上級生には思いもよらないことだった[★04]。

 シュトルムは18歳の時、父の意向で当時評判のよかったリューベックのカタリーネウムというラテン語学校に転校する。ここで彼はフェルディナント・レーゼ[★05]やエマーヌエル・ガイベル[★06]と知り合い、レーゼの勧めでゲーテの『ファウスト』やハイネ、アイヒェンドルフの抒情詩を知るようになる。

テーオドール・シュトルムの生涯――第二次フーズム時代[1864‐80]
 1864年にフーズムの郡知事に就任したシュトルムは、経済的な不安も解消し、創作にも打ち込めるようになり、翌年にかけて『ツィプリアーヌスの鏡 Der Spiegel des Cyprianus』という童話と『海の彼方より Von Jenseit des Meeres』という小説が書かれる。ところが、1865年5月20日、7番目の子ども(ゲルトルート)を出産した後に最愛の妻コンスタンツェが産褥熱のために亡くなる。絶望したシュトルムは、深い悲しみから立ち直るため、フーズムを離れる決断をする。メリー・パイルという英国人家政婦に子どもたちの世話を任せ、1865年9月1日、ツルゲーネフ[★18]を訪問するためバーデン・バーデンに赴く。途中、各地の友人を訪れ、9月末にフーズムに帰ってくる。

 フーズムに戻ったシュトルムは、家政婦と子どもたちとの間の不協和音を察知する。他人をまじえずに子どもたちと暮らしたいと考えたシュトルムは、再婚を考えるようになる。相手は新婚時代に恋愛関係にあったドロテーア・イェンゼンであった。当時、ドロテーアは独身のまま市長の家で家政婦をしていた。シュトルムの弟ヨハネスの妻はドロテーアの妹であり、シュトルムの子どもたちもドロテーアのことをよく知っていた。コンスタンツェもドロテーアのことを心配し、幾度も相談相手となり、健康だった時からドロテーアを夫の後添いにと自分で決めていたという[★19]。1866年6月13日、シュトルムとドロテーアはハトシュテットで結婚式を挙げた。結婚して数年は、シュトルム家では継母問題をめぐるさまざまな心的葛藤の状態が続いたが、1868年11月にドロテーア自身に子ども(フリーデリーケ)が生まれると、そうした問題もしだいに解消された。

 第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争後、1865年8月14日にガスタイン協定が締結され、シュレースヴィヒ公国はプロイセンに、ホルシュタイン公国はオーストリアにその管理が委ねられた。しかし、両公国の領有権は両国が共同で持っていたため、1866年普墺戦争が起こり、両公国はプロイセンが支配することになる。その結果、郡知事の職は廃止となり、シュトルムは区裁判所判事となる。「プロイセン気質をすべての人間性の敵と見なす」(オーストリアの女流作家アーダ・クリステン宛、1870年7月末の手紙)シュトルムは、プロイセンに対する嫌悪と「憂慮すべき内政状況に対するやり場のない怒り」(ツルゲーネフ宛、1868年5月30日付の手紙)から、これ以上の創作活動は不可能と断じ、「詩人としての遺書」(ゲオルゲ・ヴェスターマン宛、1868年6月28日付の手紙)を書くためにヴェスターマン社と全集出版の契約を結ぶ。こうして1868年に最初の「全集 Sämtliche Schriften」が刊行される。しかし、「シュトルムはしだいに失望を克服し、自分自身と古い時代への回想から必要な距離をとることができるようになる。憂うべき政治的状況に対する内面的葛藤や二度にわたる転職(郡知事と区裁判所判事としての)は、主観性を限定し、客観的事実により多くの余地をあたえるような小説形式への移行を促すことになる[★20]。」1872年に書かれた「『荒野の村 Draußen im Heidedorf』で、シュトルムは初期の短編小説の視点技法に近代リアリズムの距離を置いた語り口を結びつけ、新境地を開拓している[★21]。」本書に収められた六篇は、いずれも抒情性から叙事性、登場人物の心理描写へと重点が置かれるまさに転換点の時期に成立したものであり、創作上の不毛な時期を乗り越え、創作できることへの喜びと新たな表現の可能性に対する意欲に溢れている。1873年から1875年にかけて『従弟クリスティアンの家で Beim Vetter Christian』、『三色すみれ Viola tricolor』、『人形つかいのポーレ Pole Poppenspäler』、『森のかたすみ Waldwinkel』、『静かな音楽家 Ein stiller Musikant』、『プスーヒェ Psyche』、『左隣の家 Im Nachbarhause links』の7つの小説が書かれており、この時期は、シュトルムの創作活動全般から見ても、質量ともにもっとも実り豊かな時期であった。

【注】
★01─アーダルベルト・シュティフター(Adalbert Stifter 1805‐68)はオーストリアの小説家。代表作に『石さまざま Bunte Steine』(1853)、『晩夏 Der Nachsommer』(1857)、『ヴィーティコ Vitiko』(1865‐67)がある。
★02─ゴットフリート・ケラー(Gottfried Keller 1819‐90)はスイスの小説家。代表作に自伝的告白小説『緑のハインリヒ Der grüne Heinrich』(1854‐55)がある。
★03─ヴィルヘルム・ラーベ(Wilhelm Raabe 1831‐1910)はドイツの小説家。代表作に『雀横丁年代記 Die Chronik der Sperlingsgasse』(1856)、シュトゥットガルト三部作をなす『飢えの牧師 Der Hungerpastor』(1864)、『アブ・テルファン Abu Telfan』(1867)、『死体運搬車 Der Schüdderump』(1870)、さらに『まんじゅう Stopfkuchen』(1891)、『フォーゲルザングの記録文書 Die Akten des Vogelsangs』(1896)がある。
★04─Meine Erinnerungen an Eduard Morike. In: Theodor Storm: Sämtliche Werke in vier Bänden. Hg. v. Peter Goldammer. Berlin: Aufbau-Verlag 1967, Band 4, S. 489.
★05─フェルディナント・レーゼ(Ferdinand Röse 1815‐59)はドイツの詩人、哲学者。レーゼとの交友は、『フェルディナント・レーゼ』と題された自伝的散文の中に詳しい。Vgl. Ferdinand Röse: In: Theodor Storm: Sämtliche Werke in vier Bänden. Hg. v. Peter Goldammer. Berlin: Aufbau-Verlag 1967, Band 4, S. 525ff.
★06─エマーヌエル・ガイベル(Emanuel Geibel 1815‐84)はドイツの詩人。後にマクシミーリアーン2世の招きでミュンヒェン大学教授となり、バイエルン宮廷の庇護を受けた詩人たちの指導的立場を担った。

★18─イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(Iwan Sergeevich Turgenev 1818‐83)はロシアの小説家。代表作に『猟人日記』(1847‐52)、『ルージン』(1856)、『その前夜』(1860)、『初恋』(1860)、『父と子』(1862)がある。
★19─Vgl. Thomas Mann: Theodor Storm. In: Gesammelte Werke in zwölf Bänden. Frankfurt am Main: S. Fischer Verlag 1960, Band Ⅸ, S. 257.(トーマス・マン「テーオドール・シュトルム」、国松孝二訳、〔『トーマス・マン全集9』、新潮社、1971年、所収〕、208頁参照)
★20─K. E. Laage: a. a. O., S. 59.
★21─Ebd., S. 60.
【目次】
  従弟クリスティアンの家で
  三色すみれ
  人形つかいのポーレ
  森のかたすみ
  静かな音楽家
  荒野の村
   テーオドール・シュトルム[1817–88]年譜
   訳者解題
【訳者紹介】
岡本雅克(おかもと・まさかつ)
1970年、栃木県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科で博士号(文学)取得。現在、東京工業大学ほか講師。専門はハインリヒ・フォン・クライスト。共著に『エルンテ 〈北〉のゲルマニスティク』(郁文堂、1999)、共訳に『ヘーゲル全集 第19巻』(知泉書館、近刊)がある。