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ルイザ・メイ・オルコット『仮面の陰に あるいは女の力』訳者解題(text by 大串尚代)

 2021年2月24日、幻戯書房は海外古典文学の翻訳シリーズ「ルリユール叢書」の第13回配本として、ルイザ・メイ・オルコット『仮面の陰に あるいは女の力』を刊行いたします。ルイザ・メイ・オルコット(Louisa May Alcott 1832–88)は19世紀アメリカを代表する女性作家。南北戦争後に出版して人気を博し、現在も、世界中の読者から児童文学の古典として愛される『若草物語』シリーズで知られています。そんな著名なオルコットですが、A. M. バーナードという男性ペンネームで発表、出版している大衆向けの扇情小説があることはあまり知られていないかもしれません。本書『仮面の陰に』はまさに、作家オルコットの別の素顔を伺い知ることのできる、ゾクゾクするようなスリルを味わえる、本邦初訳の小説作品です。
 以下に公開するのは、訳者・大串尚代さんによる「訳者解題」の一節です。

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ルイザ・メイ・オルコット『仮面の陰に あるいは女の力』訳者解題(text by 大串尚代)


 1868年に出版され、多くの読者から支持された『若草物語』には、作者ルイザ・メイ・オルコットの少女時代が色濃く反映されていることはよく知られている。登場するマーチ家の四姉妹、すなわちメグ、ジョー、ベス、エイミーは、オルコット自身の姉妹である姉アンナ、オルコット自身、22歳で亡くなった三女のエリザベス、そして四女アビー・メイがモデルとなっている。

 オルコットは、教育者でもあり思想家でもあったエイモス・ブロンソン・オルコット(1799‐1888)と、ニューイングランドの由緒ある家柄のアビゲイル(1800‐77)との次女として、1832年に、ペンシルヴェニア州ジャーマンタウンに生まれている。父ブロンソンは、理想を追い求める教育者であり、詰め込み教育や体罰に反対し、子供たちのなかにある学ぶ意欲を引き出そうとする教育を実践していた。しかし学校経営はうまくいかず、もともと経済的なことには疎いところもあり、母親アビゲイル(アッバ)が福祉関係の仕事についたり、母方の親戚に借金をしたりするなど、母親が金銭的に苦労をする姿をオルコットは見てきた。オルコットや姉のアンナは、自分たちが働ける年齢になると、家庭教師、針仕事、付添人などさまざまな仕事に従事してきた。

 オルコットはまた、雑誌や新聞などの定期刊行物に原稿を送り、掲載された作品の原稿料を得るようになっていく。最初に活字になった短編小説は1852年に新聞「オリーブの小枝」に掲載された「恋敵の画家たち」であり、その原稿料は5ドルだった。『若草物語』では、ジョーが初めて持ち込んだ短編小説「恋敵の画家たち」(オルコットは自身の短編作品と同名)が、新聞「スプレッド・イーグルズ」に掲載され、それを姉妹の前で披露するジョーの姿が描かれている。そのときジョーは原稿を持ち込んだときの様子をこう語っている。

 それでわたしが(掲載してくれるかどうか)答えを聞きに行くと、編集者の人は持ち込んだ二つの作品のどちらも好きだと言ったの。でも新人には原稿料は払わないのですって、掲載だけして、作品を読んでもらうのもいい練習になるからって。そしていいものが書けるようになれば、どんなところからも原稿料を払ってもらえるようになるって。だから原稿をふたつとも置いてきたの。そうしたら今日これが送られてきたというわけ。…わたしもっと書くわ、次は原稿料を払ってくれるというし、それに、ああ、わたしとっても嬉しいわ。そのうちわたし自活できるようになるかもしれないし、みんなを助けてあげられるわ[★04]

 オルコットの分身ともいえる『若草物語』のジョーは、父親マーチ氏が従軍牧師として南北戦争に参加している間、自分が一家を守らなければと考えている少女である。それは経済的に自分が自活し、そして家族を助けたいという気持ちへと繫がっている。そうした気持ちは、ジョー、すなわちオルコットの執筆の原動力になっていたことだろう。

 オルコット自身のペルソナであるジョーは、『続若草物語』で、先述の通りニューヨークへ行き、家庭教師をしながら作家修業をする。『若草物語』では、こうした煽情小説はあくまで金銭を得る手段として描かれ、最終的には先述のようにジョーは我に返り、自分が書いた小説を「ゴミのような作品」だと思い直している。だが、ここで印象的なのは、ジョーがこうした物語を執筆することにのめり込んでいく様子もまた、描かれているという点だ。彼女は、少しでもオリジナリティのある物語を執筆するために、新聞で事故や犯罪の記事を読みあさり、また図書館で毒薬に関する資料をたずねて怪しまれ、路上の人々を観察し、古い物語を調べてもいる[★05]。

 はたして、ジョー、そしてオルコットがこうした煽情小説を執筆したのは、単に金銭的な理由によるものだけだったのだろうか。

オルコットの仮面
 『若草物語』の出版を契機に人気を博したオルコットもまた、実はジョーと同じく煽情小説を執筆していた、という驚きの事実が明らかになったのは、20世紀も半ばにさしかかろうとしているときだった。伝記作家であるエドナ・チェニィは、自身が執筆したオルコットの伝記に『ルイザ・メイ・オルコット、子供の友』(1888)というタイトルをつけており、そのイメージが広く浸透していた。しかしオルコットは同時に別の顔も持っていたのである。

 1943年4月、ハーバード大学にあるホートン図書館で、マデライン・スターン(1912‐2007)とともに、オルコット関連の資料調査をしていたレオナ・ロステンバーグ(1908‐2005)は、オルコットが煽情小説を執筆していたことを示す、編集者からの手紙を発見した。そのとき、静かな館内にロステンバーグの叫び声が響いたという[★06]。最終的に、ロステンバーグは1865年から翌年にかけてオルコットに届いた5通の手紙を「発掘」し、それによって彼女が執筆していた作品名、掲載誌、そしてA.M.バーナードという男性を想起させるペンネームが明らになったのだった。

 これをきっかけとして、オルコットが執筆した煽情小説が次々に発見されたおかげで、オルコットの別の顔をわたしたちは見ることができるようになった。オルコットの煽情小説家としての出発となったのは、南北戦争中の1862年に、人気週刊新聞紙「フランク・レスリー挿絵入り新聞」が賞金100ドルで短編小説を応募していることを知ったオルコットが、「ポーリーンの激情と罰」という作品を投稿し、見事その賞金を勝ち取ったときだった。ただし、この作品が翌年1863年に二週にわたって掲載された際には、匿名での発表となった。この作品は恋人ギルバートに裏切られたポーリーンが、自分を慕う年下の男性マニュエルと共謀し、ギルバートへの復讐を企てるという物語である。

 このときまでに、オルコットは家族向けの雑誌「オリーヴの小枝」や一流文芸誌「アトランティック・マンスリー」などに短編小説を発表しており、1864年に出版されることになる長編小説『気まぐれ』を執筆・改稿してはいたものの、それだけではなく教える仕事や針仕事なども行なっていたことが、たとえば1859年の日記からもうかがわれる。オルコット家がつねに経済的な余裕がない家庭であったことを考えれば、100ドルの賞金はオルコットの目には魅力的に映ったに違いない。

 オルコットはこの頃、南北戦争に看護士として参加した時の従軍体験をもとに執筆し、高い評価を得た『病院のスケッチ』(1863)を出版しているが、それと並行して匿名で「暗闇の囁き」や「二つの目、あるいは現代のマジック」といったスリラー小説を「フランク・レスリー挿絵入り新聞」に掲載していた。戦争で負傷した兵士を助ける看護士トリビュレーション・ペリウィンクルを主人公とした『病院のスケッチ』では、この新米看護士が負傷した兵士の傷と心を癒やすことに奔走する姿が描かれる。しかしもう一方でオルコットが作りだした世界では、財産を狙われ精神病院にいれられる女性や、恋人を守るために殺人を犯す人物が登場する。このふたつの対照的な世界は、オルコットの中に共存していた。

 オルコットが煽情小説を書いていた理由としてただちに思い浮かぶのは、執筆の容易さと原稿料だろう。オルコットは、実際に、この数年前に友人に宛てた手紙で、このように書いていることが知られている。

血と雷の物語(a blood and thunder tale)で帳簿を明るくしようと思っています。こういう物語の方が「作文」しやすいですし、道徳的でシェイクスピア作品のような凝った作品よりも、原稿料がいいのですもの。だからインディアンだとか、海賊だとか、狼、熊、そして追い詰められた乙女の絵が、「取り乱した花嫁」とか「血だまり 熱き興奮の物語」なんていうタイトルの上に、大々的に描かれている新聞をお送りしても、驚いたりなさらないでね。〔1862年6月22日付、アルフ・ホイットマン宛の手紙〕[★07]

 ここでオルコットは、煽情小説のことを「血と雷の物語」と呼び、その書きやすさと原稿料の高さを意識していることがわかる。1865年には、エリオット・トマス&タルボット社から刊行されていた週刊誌「フラッグ・オブ・アワ・ユニオン」に「V.V.――あるいは策略に策略を」という作品と、初めてA.M.バーナード名義を使用した「大理石の女」が掲載された。日記にはそれぞれ50ドルと75ドルの原稿料だったことが記録されている。

 オルコットはウィリアム・F・ウェルドの病弱な娘アンナの介護人兼付添人として、1865年から1年ほどヨーロッパに渡り、スイスのヴェヴェイで『若草物語』のローリーのモデルのひとりと言われる、ポーランド青年ラディスラス・ヴィシニェフスキと出会っている。翌年にアメリカに帰国すると、自分の留守中にオルコット家の経済状態が余裕をなくしていたことを知る。日記に「一家の稼ぎ手がいない間に、案の定我が家は借金をしていたので、早速執筆に取りかかった[★08]」と記しているように、オルコットはすでに自分のことを「一家の稼ぎ手」と考えていた。彼女はこの年、「天才の酔狂」「タタール人を飼いならす」「修道院長の幽霊」など多くの煽情小説を生み出している。その中に「仮面の陰に――あるいは女の力」も含まれていた。「仮面の陰に」は、1866年10月から11月にかけて、A.M.バーナード名義で「フラッグ・オブ・アワ・ユニオン」に掲載され、オルコットはこの作品で80ドルを得ている。

[★04]Alcott, Little Woman, p. 128.
[★05]Ibid, p. 275.
[★06]Rostenberg and Stern, “Five Letters at Changed an Image”p. 84.
[★07]Qtd. in Stern, “Introduction”, p. viii.
[★08]Alcott, The Journals, p. 152.
【目次】
 第一章 ジーン・ミュア
 第二章 出だしは上々
 第三章 情熱と憤慨
 第四章 発見
 第五章 彼女のやり口
 第六章 警戒
 第七章 最後のチャンス
 第八章 不安
 第九章 レディ・コヴェントリー

    ルイザ・メイ・オルコット[1832–88]年譜
    訳者解題
【訳者紹介】
大串尚代(おおぐし・ひさよ)
1971年滋賀県生まれ。慶應義塾大学文学研究科博士課程修了。博士(文学)取得。現在、慶應義塾大学文学部教授。著書に『ハイブリッド・ロマンス――アメリカ文学にみる捕囚と混淆の伝統』(松柏社)、訳書にフェリシア・ミラー・フランク『機械仕掛けの歌姫――19世紀フランスにおける女性・声・人造性』(東洋書林)がある。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、『仮面の陰に あるいは女の力』をご覧ください。