希死念慮に花束を


延命治療だ。
本当は余命が過ぎているのに、何かに依存して、次へ次へと飛びついては点滴を打ちながら、首の皮一枚で生きている。誰かがそれを切ってくれるのを待ちながら。



はやく死にたいと思う。もっと明確に言うと、日頃感じている閉塞感や鬱憤、将来への不安やその全てが無くならないのなら、はやめに死にたいと思う。

その気持ちが芽生えたのは、小学校四年生の時だ。横並び一列でいられた小学生の幼さから、徐少しずつ序列ができていくのはこの頃だ。なんとなく人気、から、モテるモテないだとか、話が面白いだとか、もっと人間的な本質に気がつき始める。私はその頃インターネットに目覚めた。いわゆる「オタク文化」に触れて、ごちゃんねる(当時は2ちゃんねる)まとめを未漁った。


人格形成期にごちゃんねるを見ると弊害が起きる。シンプルに人格が歪んだ。鬼ごっこをして遊んでいる同級生を見下した。この狭い教室の中で、ひときわ大人びている自分が欲しかった。他とは違う自分をアイデンティティにしてしまうのはなぜなのだろう。自分の個性がないことに気づいているからこそ、個性を渇望して裸足で砂漠を彷徨った。見つけられたのは、サボテンだけだった。


人とは違うとは言っている時点で、本当は何一つ変わらない平凡な人間だ。むしろそんなことを言っている時点で平凡中の平凡で、どこにでもいる当たり前の人間である。ただし、誘発点がたまたまネット文化であっただけで、きっといつか何かに触れて絶対にこの性格にはなっていたと思う。きっと。

では逆に、私の思うどこにでもいない人間は何なのだろうと考える。スティーブ・ジョブズがいなくなってもApple社は成長を続ける。大谷翔平がいなくてもチームは勝てる。美人やイケメンなんて腐るほどいる。頭のいい人間も。金持ちも。

なくてはならない人間などこの世にはいない。つまり、私がどう成功しようと金や名声を得ようと、きっと満足いくことなんて何もないのだ。なんだ、はやく死のう。どうせ死ぬなら、苦しみも少ない早めの死がいい。小学生の頃から死にたいんだから、もうそれが変わることはない。

でも、思うことがある。もし、タイタニック号に乗っていて、船が傾き始めた時、私は誰よりも先に逃げるだろう。それはそれは、他の全員を押しのけて、ボートに乗り込むだろう。友達や家族から手を求められようと、私はそれを振ってボートに乗るだろう。なら、私は死にたいのではない。楽しく生きたいだけで。それが叶わないから、今この瞬間も死という救済を喉仏から腕を出して求める。はやく死ねたらいいのに。

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