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コロナ禍2020〜2021随想②

恐れからの克服
 新型コロナウィルスは、当初得体の知れないウィルスだったため、私も含め人々は恐怖に慄いた。しかし、病気を発症する原因が新型ウィルスであることは、現代は既に可視化できている。1918年から1920年にかけて大流行し、世界人口(当時18億人)の半数から3分の1が感染し、全世界で5000万人以上の死者を出したスペイン風邪(H1N1新型インフルエンザウイルス)は、1939年になって電子顕微鏡でウィルスが可視化される以前の出来事だったのだから、当時の人々にとっては、まさに得体の知れない恐怖の病だったことだろう。 反対に、病原体が明らかになれば、その感染症への不安は減少し、さらに治療法や予防法が確立されることで、ほとんどの不安は軽減する。このことは、後述する私自身の体験からも言える。得体の知れない感染症から、得体が知れるまでには時間がかかる。科学の発達は、その間の時間を急速に縮めてきたというだけの話であり、結局のところ私たちがどのような意識を持てるかが問われるのである。
 元国立感染症研究所室長の加藤茂孝氏は、感染症対策の危機管理に関して「危機管理は行政の義務」「危機予想・危機調査は研究者の義務」「危機意識を持つことは国民の義務」という竹田美文の言葉を引用し、危機管理に関するそれぞれの立場と役割を指摘している。また、寺田寅彦氏の随筆「小爆発二件」の「ものを怖がらなすぎたり、怖がりすぎるのはやさしいが、正当に怖がることはなかなか難しい」という言葉を引用し、危機意識と怖がりには、ある種の関係性が存在することを示唆している。ここで言う正当に怖がるというのは、どのような怖がり方を意味しているのだろうか。南極点無補給単独徒歩に成功した萩田泰永氏は、その著書「考える脚」で、恐怖心には目や耳から入ってくる「感情の恐怖」と、それらを冷静に数値的に判断して危険か否かを判断する「客観性に基づく恐怖」が存在することを自らの体験を通じて説いている。そして、恐怖とは人間が持つ想像力の産物であり、巨大な自然を前にした無力な人間が、自らの想像力により幻想を生み出すことで、客観性を見失わせてしまうのだと述べている。
 すなわち、私たちに求められているのは、闇雲に感情的に恐れることでいたずらに恐怖心を増幅させるのではなく、本来人間は怖がる感情を持っているのだということを十分に認識した上で、冷静に現状を見極め、それに合わせてどう対応していくことが最適なのかを選択していく綿密な思考力と慎重な行動力なのである。

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