小説『私の馬』予約開始記念号「言葉のない世界を、言葉で描く」(全文無料公開)
四年半前。
仕事場に向かいながらスマートフォンを眺めていた僕は、流れてきたひとつの記事に釘付けになった。
とある女性事務員が十億円にも及ぶお金を着服し、業務上横領の罪で逮捕された。
数年間にわたり横領は続いていたのだが、誰も気付くことがなかった。
彼女は職場では影の薄い存在で、ギャンブルもやらず、男にのめり込むこともせず、粗末なアパートに住んで質素に暮らしていたからだ。
けれども捕まった時に、お金はまったく残っていなかった。
いったい彼女は、何にお金を使ったのか?
調べを進めていくうちに、彼女が横領したお金を自分が乗る“馬”につぎ込んでいたことが発覚する。彼女はサラブレッドを自馬として買い、エルメスの馬具を買い揃え、馬が暮らす厩舎を建てていたという。
彼女が逮捕されたことを伝える記事には、馬に跨り満面の笑みを見せる彼女の写真が載っていた。心の底から幸せを歌うかのような笑顔が、そこにあった。
その夜、知人たちと飲みながらこの事件の話題になった。
「馬のために横領するなんて」
「ホスト狂いみたいなもん?」
「でも動物相手に……」
冷笑する連中を横目で見ながら手元のスマホでSNSを見ると、彼女をあざ笑うコメントが連なっていた。
スマートフォンが登場し、僕たちはいま人類史上最も言葉を使っている。
けれどもそのほとんどが、恨みや怒り、嘘、嫉妬、誹謗中傷のそれだ。
「わかりあう」ために発明された言葉をあふれさせながら、私たちは有史以来もっとも「わかりあえない」時代を生きている。
交わされる言葉は無限に増えていくのに、コミュニケーションの実感は薄れている。メッセージを送った数分後には、それがどんなものだったかを思い出すことができない。
心底「言葉」にうんざりしている自分がいた。
それでも「言葉」から離れられない。そんな時、猫に癒されたりする。
ふと思った。
彼女は言葉のない世界で生きたかったのではないか、と。
コロナが蔓延したあたりから、周りの友人たちが次々と、猫や犬と暮らし始めた。
「これで完全無欠になった」
ひとり暮らしに猫を迎えた親友は、満たされた笑顔でそう言った。
そこに言葉はないけれど、人間は動物と「わかりあっている」と思う。誰よりも「心が通っている」と感じる(僕も例外ではない)。
彼女が馬に見ていたものは何なのか。
なぜそこまで“彼”にのめり込んだのか。
どんなコミュニケーションがそこにあったのか。
人間と動物とお金の物語。
そこに、これから幸福に生きていくためのヒントがある気がした。
憎悪の言葉があふれている世界で、僕たちはどうやって言葉の手綱を引いて、誰かと繋がっていけばいいのか。
馬との「言葉のない世界」にのめり込んでいく女性を、「言葉を信じて」描いていった。
思わずスマホを放り出したくなるような、かなしくもおかしい物語が、一気に走りだした。
そして二年をかけて書き上げた小説を、
9月19日、やっと読者の皆様に届けることができる。
幸いなことに、ひと足先に読んでいただいた方々にコメントをいただきました。
こころが通じているという錯覚。そして、生きることの愛(かな)しみ。
桜木紫乃さん(作家)
ウワァ〜〜〜ッ! わたしたちの本性を、あばいて、走り去っていく、恐ろしすぎる喜劇!
岸田奈美さん(エッセイスト)
ふたりの前では、言葉はオワコン。心通じ合う瞬間に、憧れました。
カツセマサヒコさん(作家)
メリーゴーランドで無理やり口角をあげる。回っているのは世の中の方だとわかっているのに。
ふかわりょうさん(タレント)
馬と女性との感動的なラブストーリーだ。新たな令和文学の誕生! 必読‼
中森明夫さん(作家)
SNSの濁流に疲れたら、この小説を読んでほしい。言葉の力を取り戻すために。
三宅夏帆さん(書評家)
どれも素晴らしい「言葉」、本当にありがたいです。
まだ「言葉」を信じていたい、と思わされています。
最後に、昨日より小説『私の馬』が予約開始となりました。
数に限りのある「初版本」をご購入いただいた方々には、イベント等でお会いした際に必ずサインを入れさせていただきます!
発売日まで、予約をしてお待ちください。
皆様からの感想をお聞きするのを、心より楽しみにしています。
メンバーシップ限定イベントも近日開催予定ですので、そこで語り合えればと思います。