多様性はなぜ重要なのか 〜②知の蓄積〜

多様性が叫ばれる世の中ですが、多様性がなぜ重要なのかを理解しているのか怪しい言説も見受けられるので、それを解説している連載です。

前回までの記事はこちら

今回は、"知の蓄積"という観点で多様性を捉えていきます。


知の蓄積とは何かというと、他人の経験を自分の学びにするということです。

いま、我々の生活で当たり前になっていることは全て、誰かが歴史上で発案したり、誰かが困った結果の対策だったり、その知識を人類の共有財産として活用しているのです。


例えば電気は、遠い昔の誰かがどこかで静電気を食らって、また別の誰かがその正体を初めて静電気だと解明して、またまた別の誰かが電気という存在を電力として暮らしに活用しようとして、さらに別の誰かが発電所という効率的な社会インフラにまでそれを応用した、人類の長い長い歴史上での"こうすればいい"を積み重ねた末に得られた恩恵なのです。

その電気をどう使うかについても、夜は暗いから明るくしよう、冬は寒いから温風を出そう、食べ物は腐るから冷やして保存しよう、そう初めて考えた人が歴史上のどこかに必ずいて、その恩恵で、我々が当たり前と思っている便利な暮らしは成り立っているのです。


これがもし、人類が知を共有できない種族であったなら、こうした思いつきや工夫を個人個人が限られた人生の中でやる必要があります。

そもそも食べ物は腐るんだという知すら共有されていないなら、自分ひとりの歴史(経験)や本能だけに頼って物を食べていかねばなりませんし、腐りかけの物を食べて少し具合が悪くなるだけで済めばまだマシ、"食べ物は腐る"という知を得られますが、腐り方によっては最悪死にます(というか、人は簡単に死ぬ)。

腐っていない食べ物にしても、これは食べられるのか食べたら毒で死ぬのか、"知の共有"がなければ自分の身で体験するしかないのです。

命がいくつあっても足りません。


人間ひとりに与えられた時間は限られていますし、人間ひとりに与えられた命は一つしかありません。

生きるために必要不可欠な"食べる"という行為一つ取っても、"知の共有"がなければ命がいくつあっても足りないぐらいの試行回数が必要なのです。

人類はこれを分担して、知識を共有して、しかもそれを歴史上でずっと積み重ねてきたのです。


その、分担こそが多様性なのです。


人には得意不得意があります。

多様性は、得意不得意を活かすことでその価値をより輝かせることができるのです。

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