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シナリオコンクールに応募して、「2次、いや3次、最終審査もこれなら!」と思った作品が1次で落ちていて、己の基準は信用ならないと確信できた6月前半

6月1日(木)。
フジテレビヤングシナリオ大賞の1次審査通過作品が発表された。これは約45分尺のTVドラマ脚本のシナリオコンクールで、大賞作品は毎年ドラマ化されている。
そして、大賞に輝けば脚本家としての道がグッと広がる。

『カルテット』、『花束みたいな恋をした』、そして今年のカンヌ国際映画祭で脚本賞を獲った『怪物』(←ほんと凄かった。観て1週間経った今もこの映画のことを考えてしまう)などの脚本家・坂元裕二さんは同コンクールの第1回目大賞受賞者。
最近だと、昨年、社会現象にもなった木10ドラマ『silent』で全話執筆した脚本家・生方美久さんも同コンクール大賞(21年)がきっかけで、『silent』の脚本担当に至る事になる。

また『逃げるは恥だが役に立つ』、『アンナチュラル』などの野木亜紀子さん、『リーガル・ハイ』、『どうする家康』などの古沢良太さん、『ラストマン‐全盲の捜査官‐』、『TOKYO MER~走る緊急救命室~』などの黒岩勉さんなど皆、シナリオコンクール受賞者。

日本のTVドラマで言えば、シナリオコンクールに受賞できれば、脚本家になれる可能性がグッと高まる。
特にフジテレビヤングシナリオ大賞(通称:ヤンシナ)は、現在TVドラマ脚本家になれる道が最も近いコンクールだ。
『silent』の生方さんに続き、今夏放送の月9『真夏のシンデレラ』も同コンクールで大賞を受賞した市東さやかさんだ。

僕もそのルートを狙って、応募している。
今年で4回目の応募。結果は昨年初の1次通過が最高。
だからこそ今年は2次、いや3次審査には食い込まなくては。
そして書き終えた際には、「え…。これ!行くんじゃないか?」と思っていた。

‘ヤンシナ‘は例年、2月末に応募が締め切られ、6月半ばに1次審査結果、7月末、8月末に2次、3次審査、そして最終が12月頃に出る。

そして6月1日。既に1次審査結果が掲載されていた。
「早っ、、例年より2週間早っ、、、」
応募総数1679作に対して、今年の通過者は270作との記載。
つまり通過者一覧には、270作品のタイトルと作者名が記載されている。

見てみる。

全部見終わる。
確認のためもう一回見る。
その後、見落としは無いかともう一回見る。
書いていなかった。落ちてた…!!!よ!!!

10周ほどスマホを何度もスクロールして見返す。万一、見落としてる可能性もあるので。
画面の小ささの問題で見落としてるかもと、PCで5回ほど見る。だが無い。だから落ちてんだよ…。
翌日も数度見てみる。ねえ。
昨日載ってない名前が、翌日突如載っている事はないのだ。
それから数日経った今日。既に2回見た。このペースだとあと2回は見るだろう。

↓ちなみにこれが掲載されているサイト。

こんな感じで毎年、結果発表がされている。
載ってない。もし万一、この中から僕の名前を見つけた人は連絡下さい。観たい映画のムビチケ1枚(※文京区在住の方は6枚)送ります。

そんなことより原因だ。なぜ落ちたのか考えるべきだ。

①主人公に共感できない
これは応募後、何人かに脚本を見せた時に最も多く言われた言葉だ。
致命的だ。
主人公に全く共感できなくても面白い、心打たれる作品もある。
だがそれは作り手側がそれを意図とし、その上でのメッセージ性の作品であるからお客さんに届く。
しかし、僕が書いたものは主人公への共感を求めて書いたのに、共感できないと言われた。だから致命的である。
なぜそうなったのか?それは、以下であると思う。

②主観的すぎる
とにかく物語上の主人公周りの出来事が主観的すぎる。
なので主人公を追って、読み進める事が出来ない。
ある方には、「読んでいて疲れる」、「なんか胃もたれする…」と言われた。
やはり読者が追いかけたくならなければ、主人公または劇中の登場人物たちは、最後まで読む為の求心力にならなくなってしまう。
何のために彼らは行動しているの?と思われてしまう。

「主人公見てると胃もたれするから半分で読むの止めて、まだその続き読めてないんだよね…」
まさにのことを言われたのを思い出した。

対して、「この主人公を主役として描くのではなく、登場人物の一人として描いた方が、その人物も共感されたり、面白がってもらえるんじゃないかな?なぜならあなた自身がそうであるから」とも言われた。

腑に落ちたアドバイスだった。
僕が面白がって貰える時は、独りよがりに主体的に行動している時ではなく、人に指摘されたり、明らかに間違っているのにその指摘に謎の理論で抗ったり、逆に素直に飲み込んで行動している時だ。
自分は人に突っ込まれた時に面白がってもらえている。
だがこの脚本にはそれがない。主人公が独りよがりで主体的で、その上で俺を認めろ!と訴えているのだ。

③主人公は救われるかもだが、読者は救われない
そして主人公は物語都合で救われたかもしれないが、最後まで読んで下さった人は、全く救われない。
ノンフィクションを書いてるわけでも、事実を書いてるわけでもないが、主人公に対しては、自身のエッセンスが少なからずは入っていて、結果、自己を肯定してくれ!という作品になってしまっている。

逆に、その面があまりにも突き抜けていれば、共感や救いが見いだせる事もあるし、そのような作品に救われた経験は僕にもあるが、書いた脚本にはそれはない。突き抜けてない。中途半端で、明確でなく、ぼやけているのに、多くの人に刺さればいいなと、確証や決め手がないのに願っている。

映画『怪物』のインタビューで脚本の坂元裕二さんが「たった一人の孤独な人のために書いた」とおっしゃっていた。
観て1週間が経とうとしているが、未だ僕にも観た直後と変わらない余韻と思考が回っている。
坂元さんがおっしゃった人物は僕ではないのに、強く刺さった。

ぼんやりではなく、誰ヘ向けて作った物語であるのか。
そこだけは、明確に絞るべきなのだと強く感じた。
その突き抜けたピンポイントさが、その周りにいる僕たちにも刺さり、共感や救いを感じるのかもしれない。

脚本の反省をつらつらと書いてしまいましたが、以下がその脚本です。
よかったら覗いてみてください。

そして今月も‘NHK創作テレビドラマ大賞‘というシナコンがある。
これも大賞作品は、NHKでドラマ化される。
今回の反省を踏まえる。なぜ書くのか、誰の為に書くのか、誰の為にこのような事をしているのかをちゃんと定めて、応募しよう。


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