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「第3回 平山まちづくり勉強会〜焚火を囲んで、遊びが支える防災の知恵を学ぶ〜」

10月6日(日)、日野市平山にある「平山台健康・市民支援センター(旧 平山台小学校)」の跡地活用についての見解を深めるために開催された勉強会にお呼びいただいた。

勉強会と聞くと、「会議室で行われる堅苦しいもの」というイメージだが、今回のイベントのおもしろさは、これを屋外で焚き火を囲みながら開催したところにある。
言うなれば青空会議だ。綺麗に晴れて文字通り青空の下で実施できればよかったのだが、当日の天気は残念ながら曇り。しかも、午前中は雨だった。午後は止んでくれたので実施についてはギリギリセーフといったところか。
地面はぬかるんでいて、晴れやかな青空会議とまではいかなかったが、それでも焚き火を囲みながらアウトドアチェアに座って集まるだけで、なんだかワクワクした。

日野社会教育センターが所有しているタープやテント、アウトドアチェア、焚き火台などが設置・貸し出しされたほか、日野自動車が開発した「みんなのパレット」が設置され、その実証実験も行われた。

キッチンカーも出店しており、アルコールメニューも豊富。それが、大人の楽しみをつくっていて、とても良かった。

座談会「遊びが支える防災」

さて、今回私は「遊びが支える防災」をテーマにした座談会のゲストとしてお呼びいただいた。
パネリスト?は、私に声をかけてくれた「日野社会教育センター」の寺田達也さん、「日野市防災安全課」の職員2人、そして私の合計4人である。
寺田さんの進行で、参加者からの質問も交えながら自由なトークが繰り広げられた。

なぜ私が呼ばれたのか?

今回お呼びいただいた背景には、私がこの平山地域で地域防災・減災活動に取り組んできた過去がある。
大学時代に被災体験の伝承活動をスタートさせた私は、「日野市社会福祉協議会」の方々に協力いただきながら、日野市での活動を増やしていった。
同時に、新たな災害に対する備えとして、地域防災・減災活動の実践にも着手。日野市平山地域をフィールドにして開催した「ひらやま減災ウォークラリー」を主宰した。
この日の会場「平山台健康・市民支援センター」も、このウォークラリーのゴール地点として活用した施設だ。ウォークラリーは、50人以上の大学生がかかわり運営したのだが、企画・準備段階においては何度もこの地域に調査に入った。近隣地域の自治会長と連携し何度もやりとりしていた(食事もご馳走になった)ため、個人的にも思い入れのある場所である。

そんなわけで、東日本大震災での被災経験に加え、そこでの教訓を生かしながらこの平山地域をフィールドに、「遊び」によって地域防災・減災に取り組んできた実績が、今回お声がけいただいた最大の理由だろう。

平山台健康・市民支援センターのこれから

この「平山台健康・市民支援センター」が、建物の老朽化もあって、近い将来に取り壊し?既存の機能停止?となるそう。
そこで、その跡地利用を考えるというのが今回の勉強会の趣旨である。

現在同施設は、日野市の避難場所として指定されている。坂の上にあり、河川の氾濫をはじめとする水害のリスクが低いことから、近隣住民の避難先としての期待は大きい。

座談会の初めには、日野市の防災マップを見ながら防災安全課職員の説明を聞き、現在この場に求められていることやその価値などを確認・整理した。参加した市民からの質問を取り入れながら話を広げたり、深めたりしていったが、この施設に対しては近隣住民による「災害時に行政からの支援(公助)を享受する場」としての期待が強そうだ。

一方で、これから少しずつハード面の機能を失っていくことは、紛れもない事実として受け止めていかねばならない。
跡地としてここに残る広大な空間をどのように活用していけばいいのだろうか。そのヒントになるのが、今回の「遊び」の観点だ。

災害対策 × 遊び

皆さんは「遊び」という言葉からどのようなことをイメージするだろうか。鬼ごっこ?陣取り?雪合戦?子どもの遊戯だけでなく、「ゆとり・余白」として捉えながら、災害への対策として組み込んでいくことが重要だと考えている。

地域によっては、過去の災害の好例を過大評価し地域特性を無視して転用しようとしたり、細かくまとめたマニュアルをつくって満足したりする例もあるようだが、実際は過去と全く同じ災害が起きることはないし、同じ名前の災害でもその被害は地域によって異なる。当然、完璧なマニュアルをつくれるわけはないので、そこで生まれた(他にはない)課題に対しては、独自の工夫をしなければならなくなる。
だからこそ、決まったこと・すべきことの実行にとどまらず、余白部分(こうしてみたら良くなるかも等)を意識しながら、自らの手で今までなかったものを創っていく・生み出していくことが求められるのではないか。
そして、そのような余白部分をあえて設けておけるような防災・減災対策のあり方こそ、今回のテーマとの接点となる。

「遊び」をどう捉えるか。

自らつくる営みとしての「遊び」

防災と聞くと誰かの話を聞いて満足するような硬い雰囲気でつまらないイメージになってしまっているのが現状で、どちらかというと、「決まったこと・すべきことの実行」にプレッシャーや焦りを感じて、ネガティブになっている地域が多いと思う。

ここで鍵となるのが、「遊び」だ。
西川正は、自身の著書『あそびの生まれる場所 「お客様」時代の公共マネジメント』において、「遊び」を次のように示している。

遊びとは、「大縄跳び」や「かくれんぼ」などの”メニュー”のことではない。 遊びは、心のありようを表すことばである。 その子が、自分でやりたい(おもしろそう)と感じ、動き出すことが遊び。 したがって誰かにやらされていると感じているうちは、遊びとはならない。

また、最初から結果が見えていたら遊びにはならない。 どうなるかわからないという時、はじめてそれは遊びになる。

西川正(2017),『あそびの生まれる場所 「お客様」時代の公共マネジメント』,p5

災害は、我々から日常を奪う。時には、見慣れた風景も使い慣れた場所も失われ、近い将来の見通しさえ見えなくなる。誰かに頼ろうとしても、頼ることのできる人がその場にいるかどうかさえ分からない。自ら動き出さねば、自分の日常は取り戻せない。
そんな不確かな災害時と、ここで示されている「遊び」の場面には多くの共通点がないだろうか。

つまらないもの・面倒くさいものの代名詞となっている(なりつつある?)防災に「遊び」が生み出す”楽しさ”を組み込むことで、イメージを変えるということについては、多くの方が考え、すでに実践しているだろう。ただ、ここで大事にしたい”楽しさ”もしくはその先にある”おもしろさ”には、自ら創り出す・生み出すという喜びが欠かせない。
誰かに提供してもらうものではない。自分が、自分たちが試行錯誤することで、災害時に役立つような知恵を発見したり、具体的な準備が整ったり、力を発揮できるコミュニティが生まれたりするはずだ。もっと言うと、その過程でうまくいかなければいかないほど、つまり失敗すればするほど、それらは本当に価値のあるものになっていくだろう。

過去の災害時について語られる時、「ぎりぎりで命を落とさずに済んだ」という奇跡体験や「自分はこれをしたから助かった」という武勇伝的な自慢話が多い。当然死者が発生した事例については事後に分析がなされるが、命を落としてしまった死者には語る口はない。そのため、災害後に時間が経てば経つほど、生者の成功例の語りが増えていくのだ。
しかし、成功例として語られる行動をそのまま活かすことには、リスクがある。なぜなら、その行動は、時間や場所、年齢、性別など、様々な要素・条件によって生まれたものであるため、何が成功を生み出した要素なのかが特定できない。それに比べて失敗例は、失敗を確認できる場面が明確になりやすいため、「避けるべき行動」として教訓にしやすい。
災間(平時)における防災・減災おいても同様で、失敗をしないような、不確かさのない予定調和の取り組みに大きな成果はない。決まり切ったことをこなすような”消費的な営み”から、答えのないことをおもしろがるような”味わう(味わいのある)営み”への転換が必要だ。

まさに前述の「遊び」の考え方、「最初から結果が見えていたら遊びにはならない。 どうなるかわからないという時、はじめてそれは遊びになる」と同様で、「どうなるかわからないという時、はじめてそれは防災・減災につながる取り組みになる」わけだ。

アイデンティティを開放する「遊び」

私は、「参加者の立場や肩書きをなくし、それぞれを対等な一個人にする力」も「遊び」がもつ価値の一つだろうと考えている。
多世代での遊びの機会を企画すると、子どもよりも親の方が本気になることも多い。その遊びの競技性が高ければなおさらで、白熱した戦いになる。そこには、もはや子どもという立場も大人という立場もない。親子が別のチームになれば、本気で戦う。不思議なことに、日常の社会的なステータスを一旦降ろす(放棄する)ことに躊躇がなくなるのだ。

災害時はもちろん、日常において地域の防災・減災を考える時、地縁・社縁など、気を遣わねばならない様々な関係性がある。災害時は、各家の被害の大小を比べる(比べようもないのだが)人も出てきて、より関係性がギクシャクする。
ただ、災害時にその複雑さが生まれるというよりも、平時からあった複雑さを災害が助長するイメージが正しいだろう。だからこそ、日常的に社会的なステータスや複雑さから個々人を開放するような機会があるといい。
これも「遊び」に期待されることだろう。

子どもと大人、親と子、男性と女性、必ずしもどちらかに分ける必要もないし、分けられるものでもない。他者がどこの小学校に通っているのか、どこで働いているのか、いくら稼いでいるのか、そんな情報がどれほど私たちの日常において必要なのだろうか。
誰もがその場を、その場でしか生まれないものを味わう「遊び」には、社会の複雑さから個人を解放する力があるように思う。防災活動を楽しそうに見せるということ以上に、他者との関係における緊張感や複雑さから解放するためのアプローチとして、「遊び」の考えが役立つのではないか。

最後に

今回は時間の関係もあって具体的な遊びの事例紹介にまでは至らなかったが、それを模倣するのではなく、自分たちで創るからこそおもしろいわけで、それはそれで良かったかもしれない。
「遊び」の考え方が少しでも多くの方に伝わり、これからの防災・減災の取り組み、そして日常生活がより豊かになっていけば嬉しい。

私も一市民として、様々な人の問いを巻き込みながら創造的な実践をしていきたいと思う。

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