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何かを本気で学ぶときに重要なのは「誰に師事をするか」である

以前、「学びの事後性」をテーマに記事を書いた。今回はその続きとして、「誰に師事をするか」の重要性について説明したい。

「教育において先生の役割は重要である」という主張はこれを読んでいる方もよく聞くと思う。この主張が何を示しているかというと、普通に考えれば良い先生は「人に何かを教えること」や「人を育ていること」が上手いはずであり、そういった良い先生に教わることができると学んでいる人は伸びるということだろう。しかし、私は異なる角度からこの主張を肯定してみたい

なぜ先生が重要なのかというと、「重要な学びは事後性が高いから」である。前出の記事でも書いた通り、この世には事後性の低い学びと事後性の高い学びがある。実践を伴うような学びは事後性が高い。即ち、学ぶ前に予め「何が学べるのか」を知ることができず、色々経験した結果として「学びを得た」ということがわかる、という類の学びであるということだ。

事後性の低い学びは、学びを継続するモチベーションが保ちやすい。学んだ結果、どのような効果が得られるかを予め知ることができるからだ。一方で、事後性の高い学びは学びを継続するモチベーションの維持が難しい。学んでいる最中には、学んだ結果に何を得られるかが認識しにくいからだ。

しかし、事後性の高い学びは学びを継続することが難しいからこそ価値が高い。誰しもが学びを継続できるわけではないからだ。であれば、「どのように事後性の高い学びを継続するか」が重要な問いになる。

この問いに対する有力な答えが、「良い先生を見つけて、師事する」ということだ。何かを本気で学ぼうと思ったら、とにかく良い先生を見つけることが最も重要である。ここでいう「先生」は、必ずしも教職者である必要はない。自分が「凄い、この人から何がなんでも学び取りたい」と心から思った人を「先生」と呼べばよいのである。

良い先生を見つけ、その人に師事すれば、何がなんでもその人についていこうとする。無我夢中であらゆることを盗み取って自分の血肉にしてやろうと思うはずだ。そして、その先生から色々な事を学ぶプロセスそれ自体が凄まじく面白いと感じるはずである。いや、そう感じないような人に師事しても意味がなく、そう感じざるを得ないような人に師事すべきなのだ。

学ぶプロセスそのものに没頭すると、「学んだ先に何があるのか」という事後性そのものを気にするようなことがなくなる。「学んだ先に何もないとしても、とにかくこのプロセスに没頭できれば何でもよい」という気になる。そして、こうも感じるはずだ。「これほど没頭してこの人から学びまくることができれば、今ははっきりと言葉にはできないが、この先には絶対に『何か』が待っている。」

そう、良い先生に師事できれば「事後性の問題」を自動的にクリアできるのだ。事後性の高い学びは学びを継続するモチベーションの維持が難しいと前述した。良い先生に師事できれば、モチベーションの問題など雲散霧消する。

そしてこの意味での「良い先生」は、必ずしも「教えるのが上手い人」である必要はない。もちろん、教えるのが上手いに越したことはない。しかし最も重要なのは、「凄い、この人から何がなんでも学び取りたい」と心から思える人を先生にする、ということだ。私自身も、一般的な意味では絶対に先生にしたくはないものの、何がなんでも学び取りたいと思った人に師事した経験があるが、今振り返っても人生で最も学びを得られた経験の1つだった。

事後性の高い学びを得るには、まずは良い先生を見つけて師事しよう。その経験を数か月や数年くらい経ると、全く異なる景色が見えるようになる。


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