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25才までに1000人と出会い、25才までに1人親友を作ろう。

肉体と精神は結びついていると良くいいますが、私は最近、加齢により「明確な肉体の衰え」を感じ、それは思いっきり精神にも影響を及ぼすということを実感しております。

歩けた距離が歩けない、食べられた量の飯を食べられないってようなことは明確に精神・思考に影響しますし、残念ながら年を取って衰えるものの中には「感受性・感動する力」みたいなものも多分に含まれる。

もちろん、全部ではありません。

私もいまだに桜を見ても、月を見ても、夕日を見ても美しいと思えますが、芸術系のものへの感度は明確に弱まっていることを感じます。

これは一般化は出来ず個々の方々でも違うでしょうが、大体そういう傾向があることは否めないでしょう。


でね、アラフィフになり、人生の折り返し地点を超えた場所を歩いてる私ですが、若い時に他者から受ける影響の大きさは、当たり前だけど若い時の自分に大きく影響したよね、ってことをしみじみ思います。

10人の他者を知っている人と、100人の他者を知っている人と、1000人の他者を知っている人では、自分を作り上げる世界観・人格の広さと深さと奥行きが全く違ってしまうと言って良い。

精神と肉体が柔軟な時に、その粘土やゼリーで出来ているような魂を思いっきり広げたほうがいいと思うわけです。

例えば、「親に褒められたことがない」って人は、想像以上にたくさんいるものですが、「親をやっている大人」にほとんど接することなく育ったら、大人というものはそういうものだっていう固定観念が出来るに決まっている。

でも、よっちゃんちに遊びに行って、たっちゃんちに遊びに行って、なっちゃんちに遊びに行って、そこのパパママが子供を褒めているのを見たら、「ああ、世の中には子供を褒めてくれる親もいるんだ」っていう当たり前の事実に気づける。

そして、「よっちゃんはいいよなあ。パパに褒めてもらえて」ってことをポロッとこぼしたら、それを聞いたよっちゃんのパパが「俺も子供の頃は親に褒めてもらえなかったよ。だから人を褒めてあげられる人になりたいって思ったんだ」って言ってくれるかもしれない。

多分、それだけで自分の世界観は変わります。

親に褒めてもらえないのは自分だけじゃないんだ、そして、そうだとしても、自分が大きくなったら誰かを褒めてあげられる人間になればいいんだって思えるかもしれない。

大きく変わる。メチャクチャに変わる。ネバネバドロドロ状態の魂は小さく冷たく固まるのではなく、やわらかく大きく広がって、誰かを包むことができるようになるかもしれない。

世の中には色んな人がいます。

怒りっぽい人もいれば全然怒らない人もいるし、礼儀正しい人もいればそんなもの全然気にしない人もいるし、学歴を気にする人もいれば全く気にしない人もいるし、働かざる者食うべからずって人もいれば楽しく生きればいいじゃねえかって人もいる。

世界が狭く自分の周りの人間に強く影響を受ける若い時だからこそ、多くの人に接して、多くの世界観に触れて欲しい。

「こうしなさい。ああしなさい。これはするな。あれはするな。」ってことを正義の顔をして求めてくる大人はたくさんいますが、それが絶対的に正しいことなんてないんです。

それを知るには「別に全然そんなことねえよw」って人に出会うのが手っ取り早い。


昭和50年生まれの私の小学校は、1クラス45人が3クラスあり、中学は4クラス、高校は6クラスありました。

それだけで500人くらいいて、もちろん全員と話すことなんてないわけですが、部活なり、行事なり、委員会なりで話して影響を受ける機会はそこそこあり。

ただ、私が明確に全く違うレベルの影響を受けたのは浪人中に出会った代々木ゼミナールの先生たちだし、大学時代に出会った様々な人たちでした。

小中高と地元の公立校で育った私は、結局「東京東部で生まれ育った人たちの世界観」しか知らなかったわけですが、代ゼミの先生とか大学で出会った人たちは、そんなものは飛び越えた世界観を持つ人達だった。

そういうものに触れるとね、自分の価値観・世界観も変わります。

もちろんね、地方の過疎の場所で住んでいる人や、人口の少ない地域に住んでいる人、進学出来ない人なんかは多くの人に出会うチャンスは少ないでしょう。

今の若者は少子化の最中にいるので、学校で出会える人の数もデフォルトで減っているでしょう。

でもね、リアルに出会うことだけが出会いではない。

そういう人は、読書をするんです。

YouTubeの動画で誰かが話しているのを聞くのでもいい。

色んな人が話していること、書いていることをとにかく聞きまくって読むことです。それも出会い。

大事なのは、「ひろゆきの切り抜き動画だけを見る」とかでなくて、色んな人の話を聞くこと、1000人に出会うこと。1000人の話を聞くこと。

そうすれば、心に多様性と寛容さを持つ余地が増える。

「正義は1つじゃない」って知ることは、自分も他人も許せるようになる余地が増えるってことです。


そして、同時にたった1人で良いから心を開いて付き合える友達を作ること。

もちろん、若い時にしか友達を作れないわけではありません。

中年以降に生涯の友を得る人もいるでしょう。

でも、多くの場合、「若い時にしか作れない友達」というのも確かにあって、50才手前になった今、色んな人に話を聞いてみると、「長く付き合っている親しい友人はいない」って人はかなり多いということです。

だから、若いうちに明確に努力しましょう。

100人、200人、300人と腹を割って付き合えば、わかり合える人というのはいるものです。

昔の私もそうでしたが、100人、200人、300人と出会って仲の良い友達が出来ないのは「自分が誰かの友達に値しない人間だから」です。残念ながら。

簡単に言うと、

「お前がイヤなやつだから友達できねえに決まってんだろ、タコスケ!愚痴と文句を減らして、人の役に立つことをして、楽しそうに生きろよ。一緒にいてつまらないやつと友達になりたいやつなんているわけねえだろボケナス!」

ってことです。


私はたまたま18才までわかり合える友達が出来ず、上に書いた意味合いの言葉に出会って「だめだこりゃ、自分を変えて誰かの友達に値する人間になろう」って努力出来ましたが、そうでない状態で30年過ごしてきた48才のおっさんに「友達がいないんですけど・・・」って言われても、相当に厳しいです。

25才までにね、多くの人と出会い、たった1人でいいから親友を作る努力を出来た人は、多分、35才になっても、45才になっても、その流れをキープ出来ると思うんですね。

出会いは大事ですが、「出会いの継続」こそが大事だと思うんです。

20才くらいまでは友だちを作る努力なんてしなくても、学校に行けばクラスメイトに会えます。

社会人になって会社勤めをすれば、上司、同僚、部下と毎日顔を合わせる。

家族ができれば家族がいつもいるでしょう。

でも、40才、50才になって、そういうものがなくなった時、そうでない関係性を見回した時、誰もいないというのは相当に悲しいものですよ。

18才の頃、空を見て「心を開いて一生付き合える友達が欲しい」ってことをガチで願った私が30年経って48才になった今思うことですから間違いはないw

おじさんからは以上です。

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