私は爆発音を聞いた!三菱重工業爆破事件1974年
2025年1月3日に「救急車呼ぶ!神楽坂駅すぐの赤城元町から。」を投稿したときに突然記憶がよみがえった。
この件で色々調べたり、その結果で、思い出したりしたことを書いてみることにします。
その日、私は赤城元町のアパートの2階にいた。
すぐ裏が赤城神社になります。
夏休みもまもなく終わるが、なぜか机に向かい座っていた。
大きな引き戸の窓ガラスは夏なので全開にしていて、方角は飯田橋駅方面を向いていた。
1974年8月30日 12:45分頃 「ドッカーン」
今まで聞いたことが無い、お腹に響くような音が鳴った。
私はただ事ではないと、すぐに感じ(その時は地理的には、もっと近くに感じた)、すぐにラジオをつけた。
それほど時間も経たずに、ニュース速報が流れた。
場所:三菱重工業東京本社ビル(東京都千代田区丸の内)
被害者:死者8名、負傷者376名(この時点では詳細はわからず)
犯行グループ:東アジア反日武装戦線「狼」
この事件は、発生8分前に警告の電話があったが、いたずらだと判断し避難措置は取られなかった。
当時は、戦後日本で最悪の爆弾テロと報じられた。
その夜か翌日に、テレビで映像を見たが、それは酷いものでした。よく死亡者数が少なくて済んだと思われるような映像でした。
その時、その現場の近くに従姉が勤める会社があったが、人には被害がなかったが、入居するビルのいくつかの窓ガラスが割れたらしい。
恐怖の出来事だったようだ。
この事件は51年前の話だが、つい最近、長らく逃亡していた、霧島聡(本名:内田博史)が2024年1月に神奈川県鎌倉市の病院で発見されが、3日後に死亡した。
このニュースは記憶に新しい。
最後に自分から名乗ったようだが、その心の中は計り知れないものがある。
私が思うには、自分の存在を最後にアピールしたかったのかもしれない。
何せ、51年間自分の存在を消してきたわけだから。
どんな意味を持った破壊行為だったのか、誰も知る由もない。
残念で、とても悲しいことだ。
話が変わるが、この爆発音がよく聞こえたことをよく調べてみると、色々と分かったことが出てきた。
大きな爆発だったことが原因ではあることは承知のことだが、距離的には、現場から約3~4km離れていた。現在のように高いビルは非常に少なかった。
私の記憶、アパートの大家のおばさんがよく言っていたことで「関東大震災の時には、赤城神社の崖まで全て焼け野原になった。」
これは赤城神社に立って早稲田方向を眺める、ということです。
ゆえに赤城神社の下から早稲田、高田馬場方面はすべて焼け野原だったということになる。
飯田橋駅から神楽坂をのぼると、最初は急坂で、後半は緩やかなのぼり坂になる。
標高でいうと、事件現場の丸の内は標高3.4m、水道橋駅辺りは標高5m、飯田橋駅辺りは標高8m、赤城神社辺りは標高25.2m, と赤城神社が頂上になるように地形は出来上がっていた。
これを裏付けするような雑誌を見つけました。
『石版東京圖繪』の中に出てくる文章をピックアップしてみます。
永井龍男氏の『石版東京圖繪』(中央公論社発行、昭和42年より)のある章「バラック」です。
・・・関東大震災で下町はやられましたが、神楽坂はほとんど無傷でした。・・・
・・・・・・牛込の軍隊仲間の家だ。なあに、見渡す限り焼けっ原のようだが、神楽坂を上ってみろ。昔のまんま東京が残ってる。・・・・・
・・・卯之吉が云った通り、飯田橋を一つ渡って神楽坂にかかると、昔のままの東京があった。・・・
おばさんが言う「関東大震災の時には、赤城神社の崖まで全て焼け野原になった。」ということは、早稲田方面からの火の勢いはここで食い止めることができたことになる。
私には赤城神社の崖のことがいまいち納得していなかったが、確かに現在でも赤城神社の早稲田方向に少し行くと、神社と並行する結構な下り坂(赤城坂)が続いています。
この坂の右側(赤城神社側)が、おばさんが言っていた崖になっていたのかもしれない。
これらの情報とその日は晴天だったとことも併せて考えると、はっきり聞こえる条件は十分揃っていたと考えられる。
最後まで読んで頂き感謝です、ありがとうございました。