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【読書記録】市川沙央『ハンチバック』 ちょっと仏教学かじった人の感想

市川沙央『ハンチバック』読了しました。2023年に芥川賞を受賞し、話題となっていた作品。
 大学で仏教学をかじった身からすると『維摩経』の「泥中の蓮」が元となった描写が多くて嬉しいです。

『維摩経』の「泥中の蓮」とは

「譬えば高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にすなわち此の華を生ずるが如し。」

『維摩経(ゆいまきょう)』「仏道品(ぶつどうほん)」『大正大蔵経』第14巻549頁

上記は『維摩経』というお経の一節です。ざっくり現代語訳するとこうです。
「例えば、高原といった陸地で蓮華は咲きません。しかし、卑しい湿地の泥の中でこそ、この美しい花は咲くのです。」
なんだか、ハンチバックの本文で読んだ話っぽくないですか?

ここで、蓮の花の生態について確認します。
蓮は通常、泥地に群生しています。動画でレンコンを収穫する様子を見れば、沼地から泥だらけのレンコンが現れるはずです。
一方、葉と花は非常に撥水性に優れていて、泥を一切弾きます。泥の中で発芽し、泥地に見事な花を咲かせる姿は、環境に左右されない力強さを連想させます。『維摩経』ではその蓮に菩薩の姿を重ね、仏教の教えを説明しています。

蓮華はまた菩薩のシンボルと見なされています。凛(りん)とした美しさを誇る蓮の花は汚れた泥水の中から生じ、しかもその汚れに染まることがありません。

譬えば高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にすなわち此の華を生ずるが如し。 | きょうのことば | 読むページ | 大谷大学 (otani.ac.jp)

 ハンチバックの主人公 釈華は自らを蓮に例えて、自分自身の生き様を語ります。また、釈華にとっての汚れた泥水とは、障害者への差別や憐憫、グループホームでの満たされない生活、イマイチ進まないバリアフリー化など、釈華を取り巻く社会全体を指します。
 釈華は悪意に満ちた世界に生きているけれど、釈華自身は社会の悪に染まることなく、正しく生きるができる。彼女はそう願って生きているのです。

 まぁ、『維摩経』は空の思想(超々平たく言うと、現世の物事は無常だから執着するなよって考え方です。解釈の分かれるムズカシイ思想なのです)を説く仏典ですので、妊娠中絶体験にこだわる釈華の生き様とはマッチしません。おそらく、蓮うんぬんの仏教的な話は、釈華の名前の由来を裏付ける程度に留まるのだと思います。
 釈華の生き様を説明するのは、やはり最終章手前で引用された聖書が有力です。

 ……ここで引用されていた聖書について語れたらカッコイイのですが、ちょっと理解できなかったので止めておきます。おそらく、妊娠中絶に対する執着心が関わってくる(少なくとも『維摩経』に中絶に関する記述は無い、はず)のだと思います。もっと大学で勉強しとけば良かった……。

最終章は釈華の理想では?

 さて、物議を醸しだしたと言われる最終章ですが、私には正直理解できませんでした!ですが、せっかくなので誤解を恐れず、私が感じた通りの解釈をここに記します。

 タイトルにも出した通り、私は最終章の出来事は釈華の夢物語だと解釈します。

・紗花(おそらく釈華のこと)という高級娼婦がハプバーで妊娠の可能性を孕んだ行為をしている。

・釈華っぽい人が田中っぽい人に殺された(物語冒頭では未遂に終わっていること。ここでは釈華の理想通りに事が進んだことになっている。)

・天井からコンドームが降ってくる描写(釈華のコタツ記事の内容と一致)

"お兄ちゃん"はミスリードで、全部釈華の妄想なんじゃないかなぁ…って、思うんです。妄想というか、釈華のコタツ記事を読まされたというか…。
 田中くんを買って性行為をし 妊娠中絶のチャンスを得たけども全部失敗しちゃって、結局は今まで通り妄想でコタツ記事を埋める生活がやってくる。そんな釈華の惨めさと憎しみが籠った最終章だと、私は思うのです。

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