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なんで学校に行かなくちゃいけないの?

 参観日で仕事だった妻を夜から開かれる附属小学校の送別会に車で送っていくときだった。息子が「学校に行きたくない」という。予想はしていたので驚きはなかったが、やはり動揺はした。息子は、朝からずっと言い出せずにいたようにも感じ、明日は日曜日だというのにもう明後日のことで頭がいっぱいになっていることに、「苦しかったね」と聴くと、息子は、「なんで学校に行かなくちゃいけないの?」と泣きながらもはっきりと口に出した。学校に通い始めて、3日目を終えたばかりである。

 妻は、「友だちと学ぶためだ」と即答したが、私は、「学ぶことは愉しいことであり、そういうごきげんになる場をみんなでつくるところだから」と頭には浮かんだが、学校が愉しくない息子を前に言葉に詰まってしまった。学習集団づくりは、「どうしてこんな学校に行かなくてはいけないのか?」には応えてきた。「なぜ学校に行かなくてはいけないか?」と子どもたちに聴かれることがないように、学校そのものを変えていく主人公になることを子どもたちに要求するのだが、「なぜ愉しくもない場に行かなくてはいけないか?」と聴いた子どもに応える言葉は持ち合わせていないようにも思えた。

 妻が送別会で保護者がみな「学校に愉しく通ってくれていることが何よりだ」というスピーチをしたと教えてくれた。多くの保護者にとって、学校は、自分の子どもが愉しくないことを経験している場なのだ。妻の同僚だった教員の娘さんも1年生なのだが、泣きながら学校に行っているという。
 
 夕食は「やきそばがいい」という息子に、いつもより肉が多めのやきそばをていねいにつくった。一緒に入ったお風呂で背中をていねいに洗ってやった。日曜日の朝に息子が起きたときにそばにいるために、息子が起きるより前に大学に行く予定にしていたが、キャンセルした。幼稚園も小学校も別々だけど、生まれた日が1日しか違わない、0歳から一緒に遊んでいる友だちと遊ぶ時間をつくってもらった。親としてできることは、日々のくらしをていねいにして、息子の話を聴くことだけしかない。「がんばれ」とは言わないが、「味方であること」は息子に伝え続けたい。
 
 独りにしないことが、家族にできることだ。
 
 

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