教師が板書をしないので、子どものノートに思考のプロセスが残っていない
いま、学校現場で何が起こっているのか。公教育の危機に対して、ミクロな視点からインタビュー調査を始めている。附属学校園に勤務した後、指導教諭や主幹教諭になった方々にお話を聴き、公教育の危機のリアリティとアクチュアリティを探るものである。
若い教員が、板書をしていないことが話題になった。板書をしていても、板書になっていないとも言う。子どものノートを見ると、めあてとまとめはあるが、思考の過程が残っていないのである。ノートがメモになっている。タブレットはノートの代わりになっているのかと問うのは、古い世代ですかねとぼやかれてもいた。ただ、板書の字が汚い、黒板の溝を掃除していないという事実は、板書も文字も子どもたちのためにと考えていないのではないかと指摘されていた。
若い教員にも、一年で授業が変わってくる教員と変わらない教員がいるという。授業が変わってくる教員は、いろいろな教員に相談もしているが、大きく異なるのは、相談した教員に実践してみたことを子どもの様子と共に報告しているところだという。悩みや困りごとにアドバイスをもらうだけでなく、実践を報告し、さらなるアドバイスをもらったり、実践に意味づけをしてもらっている。変わらない若手教員は、指導教諭に授業を観ても、「すごいですね」とか「子どもが考えていますね」と感想で終わっているという。なぜ、そうなるかは考えていないのである。すぐに答えを知りたがり、過程を愉しめなくなっている。さらに、聴きながらメモをとるとか、自分と比べながら聴くとか、教師自身が「ながら」ができておらず、他人事ではなく、自分事として聴いていないのである。
若手教員が保護者に電話する時は、管理職が横に付くという。トラブルになるからだ。ものすごくフレンドリーと言うか、ため口と言うか、相手をぞんざいに扱うか、反応が乏しく対話にならないか、そういうことがあるというのである。コロナ禍で、アルバイトや部活・サークルができずに、先輩後輩の関係を大学生が経験していないのではないかという指摘も、なるほどと思えた。
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