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5つのパンと2匹の魚 #date :2022/7/26

[ヨハネの福音書 6:5〜13]

イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」
イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。
ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。


私は自分の「召し」として、創世記1:26,28を受け取っている。

[創世記 1:26,28]
 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

ここで言う「支配する」とは、辞典に載っているような「自分の意志・命令で相手の行為やあり方を規定・束縛すること」ではなく、「管理すること(=よい状態であるように気を配り、必要な手段を使ってとりさばくこと。)」として受け取っている。

私たち人間は自分の都合で生き物を増やしたり、減らしたりしている。そのうちの1つが、エゾオオカミとエゾシカの関係。北海道では、人間がエゾシカの天敵となるエゾオオカミを害獣として絶滅させたせいで、エゾシカが爆発的に増えたと言われている。(※他にも様々な要因が考えられる)
生物学上、本来、生態系(食物連鎖などの生物間の相互関係)は、人間が一切介入しなければ、絶滅する生き物はおらず、生き物の繋がりが循環すると言われている。
しかしながら、人間が介入することによってさまざまな問題が生じる。

そこで私は、人間による失態に対し、きちんと責任をとりたいと考えるようになった。具体的には、人間によって増え過ぎたエゾシカの個体数を適切な頭数に抑える取り組みによって、エゾシカの爆発的増加により減少する生き物を保護すると同時に、ヒトとエゾシカの軋轢を少しでも緩和し、共生していける社会作りに貢献したいと考えた。

そのために必要になるのは狩猟免許。こちらは二十歳の時に既に所得している。次に狩猟銃。こちらは手続きに莫大な時間も費用を要するため、学生時代に取得することができなかった。社会人になった今、知り合いのハンターさんから、「女性でも使いやすく、状態もとても良い中古の銃の譲り先を探しているハンターがいる」と聞き、連絡をとったところ、お値段も銃の相場としては安く譲ってもらえるとのことだった。そのため、狩猟銃の所持のための手続きを進めることにした。想像以上の手続きを踏み、莫大な時間と費用を要した。貯金もない中で、生活を切り詰めて、なんとか支払っていく中で、次から次へと必要な道具が明らかになり、支払っても支払ってもお金の不足から逃れられずにいた。

そこでふと気づいた。
狩猟は金持ちの遊び」だということに。
周りのハンターはお金持ちのおじさまばかり。私のように金のない若い女は見たことも聞いたこともない。莫大な費用が必要となる狩猟はお金のない奴が手を出せる領域ではない。

私は自分の「召し」として、創世記1:26,28を受け取っている。しかしながら、野生動物の保護管理は「生活費を稼ぐお仕事」にはなり得ない。なぜなら、そこに投資する人が少ないからだ。現に、自然や野生動物の保護管理のために毎月献金を用意している日本の教会は少ないだろう。(少なくとも私は聞いたことがない。)

ただ動物を殺すことに価値を見出している一部の金持ちも、野生動物管理のために生活を切り詰めて鉄砲の所持を目指す私も、社会では等しく扱われる。等しく同じ金額を請求されるのだ。
神様から「支配せよ」と命じられても投資しない教会、農業被害やハンター不足を認識しつつも対策を練らない政府、どちらも私にとっては「やりがい搾取」なのだ。

そんな不満を抱きながら銃砲店に行ったところ、事前に電話をして予約していたにも関わらず、店長さんは私が訪問しても別のお客様と長電話をしていた。1時間以上待って、やっと対応してもらえたと思いきや、間もなく別のお客様が2組いらっしゃって、店長さんはそちらのお客様の接客を丁寧にしていらっしゃった。この差は何か。私は「金を持っているか否か」だと思った。そりゃあ金儲けのためならお金を持っているお客様を大切にした方がよっぽど理に適っている。そんなこと当たり前だ。

金がなければ相手にもされない。私は店を出た後、悔しさと悲しさでいっぱいになった。
数少ないお金で生活切り詰めて、こんなに一生懸命頑張って何になるんだろうか、頑張ったって意味ないのではないか、と思った。

そこで、ふと、数日前に読んだヨハネの福音書6章を思い出した。神様はたった5つのパンと2匹の魚で、大勢の群衆のお腹を満たすお方。だから、私の少ないお金・小さな努力を、神様は大きく大きく用いてくださるような気がした。いま、私が努力していることが社会の目からどんなに小さく見えたって、神様の目にはとっても大きく見えてるはず。私がすごくすごく努力して、小さなことに一生懸命になってることを、神様は大きなこととして受け取ってくださる。

頭の中で賛美「5つのパンと2匹の魚」を歌いながら、たくさんの人が行き交う札幌の街中で、悲しさと、悔しさと、喜びが、複雑に混じり合って、涙がぶわぁっと流れた。

「何もないところから主は奇跡を起こされる。
捧げます。この心。用いてください主よ。」

神様は私の心を見ておられる。
私の想像もつかない奇跡をこれから起こしてくださる。だから私は諦めずに走り続ける。
神様が守ってくれるから。

そう思った1日でした。

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