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ままならない人生を、いかにして生きていくのか。『Sea Wall(海の壁)』映像版

 こんにちは。人生の8割6分くらいが演劇で出来ている(残りはご飯とその他)メンバーが結構な割合を占めるクリエイティブエージェンシー、ジーンアンドフレッドです。
 パフォーミングアーツ界隈が今後、あらゆる方向へ大きな変化を遂げなければいけない中、配信映像を通して演劇の魅力に触れる機会を広げよう!という、このレビュー企画。今回はわずか34分で人生という迷路に直面させられる圧巻の短編ひとり芝居『Sea Wall(海の壁)』映像版をご紹介します。

===(以下は物語の核心に触れています。ご注意ください。)===

 柔らかな自然光が差し込む、スタジオのような空間。どこかクセはあるが人好きのする笑顔が魅力的な、童顔の男。カメラのこちら側にいる観客に向かって語られるその会話はとりとめもなく、あまりにも何気ない。
 英語が苦手だと男の話についていくのはなかなか大変なのだが、どうやら彼はカタログ写真のカメラマンで、どうしようもなく愛おしくてたまらない妻と幼い娘がおり、幸せに満ちた日々を送っているようだ。男の笑顔は妻と娘への愛そのものなのだと、夏の日差しをたっぷり浴びた海面のようにキラキラと輝く彼の会話が証明している。

 妻の父が暮らす南仏の海辺の町で、家族3人は毎夏を過ごす。これからもずっと続くはずの日常は、しかし、なんの前触れもなく堪え難い現実という落とし穴へと急降下していく。

 2020年の今に限った話ではなく、世界は、人生は、突如として何一つ説明のつかない混沌に陥り、大切なものすべては瞬時に崩壊し始める。幸せはいつだって想像だにしない悲劇と背中合わせで、私たちは人生のあらゆる瞬間で幸運に恵まれるわけでもない。
 だからこそ『Sea Wall』の主人公、アレックスの約30分のモノローグに触れることは、思いもかけないほど重要な意味を持つのだ。
 日常のふとした幸せが、どれほど貴重か。乗り越えようのない苦痛を抱え、どうやって生き続けることができるのか。粉々に崩れそうなアレックスは、カメラのこちら側にいる私たち自身であり、同時にとても大切な誰かや、SNSのタイムライン上に現れた見知らぬ誰かでもある。どうすれば、闇に包まれた彼を救えるのか? 分からないが、あらゆる手を尽くして答えを探し続けるしかない。探し尽くすことをやめるわけにはいかないのだ。アレックスと、私たち自身の「いつか」のために。

 劇作家のサイモン・スティーヴンス(『夜中に犬に起こった奇妙な事件』『FORTUNE』)は、脈絡のない雑談のような自然体のモノローグを周到に組み立て、小さなヒントを交えながら主人公の人生を巧みに映し出していく。

 そして、圧倒的なまでの感情のうねりをたった一人で紡ぎ上げるのが、アレックス役のアンドリュー・スコットだ。
 海外ドラマファンにとっては「SHERLOCK」のモリアーティ役、「Fleabag」のホット・プリースト(=セクシー神父。役名ではない)など、そのカメレオン俳優ぶりは周知の通り。彼の表情、ことばの抑揚、息遣いや間(ま)、ボディランゲージ、空間の使い方に至るまですべてが極めてナチュラルで、一つのほころびもなく、スマホのバーストで全瞬間を完璧に収めたかのように強い印象を残す。

 劇場での観劇体験は、観客一人ひとりの記憶の中でこそ最高レベルの解像度を誇るものだが、スコットに当て書きされ、2008年の初演以来何度か上演を重ねている『Sea Wall』を映像版(劇場を離れた別空間でワンカット収録されたもの)として自分のデバイスにダウンロードできるのは、間違いなく人生で体験できる最高の幸せのひとつだ。
 彼の舞台姿onスクリーンは、運が良ければ日本でも今年の後半、ナショナル・シアター・ライブの『プレゼント・ラフター』で観られるかもしれない。少しずつ再開した映画館が今後も上映を続けられるよう、引き続き全力で感染症対策を徹底しよう。

<配信情報>

※5/25(土)までYouTubeにて限定無料配信(終了)。現在は上記公式サイト(英語)より有料レンタルまたは購入可(英語・ロシア語字幕設定あり)。

<作品情報>
出演:アンドリュー・スコット
作:サイモン・スティーヴンス
監督:サイモン・スティーヴンス&アンドリュー・ポーター
製作:アンドリュー・ポーター


執筆:武次光世(Gene & Fred) イラスト:胡 淑君(Gene & Fred)

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