積乱雲の記憶(六)


寺院が投影されるのは何もものや世界の
見え方ではない。ある状態、
で自室に入るとその状態に呼応した
生物環境となる。

一旦外へ出た後、戻ると自室。
その前後が寺院。

記号を文法に変えると、霊的な視点が生まれる。
文字や言葉は体外物への記号表現なので
同じレートの相対物への変換を脳内で行う。
すると、正確に理解した時、遺伝的反応を
呼び起こし、その変化が必要かどうか審査しなければいけなくなる。或いは時に、逆の意味に取り替えてでも。そういう取り違えや勘違い、
自分に見合う意味解釈の取り付けが霊的なもの。

ある状態がある状態に切り替わると言う事は、
前後関係が相違している事が必然。
つまりは恒久的なものは自分の状態であるべき
なので、異文同訳を環境側がし始める。
その記号文法的な生活が、続く限りその様な
フォルムで相違点が自動的に計算される。
その事に生物学的な洗脳が転嫁されたのだろう。
それで、ある環境が洗脳状態となる事に従う。


あの、
私の手帳ありませんか?

いや、知りませんが。

ある会議室で落としたはずの手帳を
掃除員に聞いた女。
その女はつもりもなく落としたはずと思うと、
その事を告げたのは掃除員だが、
本来なら手帳を落とした事を他人に告げるのは危険だ。気付いた女はそれを無かった事にした。

女は向かった先で、判子の文字を掃除した。
銀行の勤め先で判子のある机は1卓。
事務機器は2箇所。
高を括る事がない様に計算された。
わたしの花瓶がある。
仕事には必要なものはそれだけだ。

わたしは帰ったら飯を食べる。
外では今夜はやめ。

複雑な経過を辿って今そこにいる子侶にとって
このシンプルな生活は想像できない程だが、
何かに依る事の重要性よりも優先したものが
複雑な世界をそのまま見る事。

女は思う。
あの、手帳に書いてあった予定は憶えてる。

コピー機の横の棚に手帳はある。
予定があるなら手帳は存在する。

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寺院的英訳文を書き続けるというのが
普通の人の生活。
仕事は英訳でプライベートは本文なのかは
私には分からないが、
文字や手帳が支配的に被支配下にあるという
立ち位置に、現代語訳した古文書が当人たち
にとって一番わかりやすいのではないか。
ほんのひと時、ある瞬間、
そんな事に本文の意味が垣間見える。
その様に見えるのである。
その本文が日本語か、古文書の現代語訳か
そんな世界を小説の様に。

記録文字が英語のカタカナなのは、
意味を持つ英単語が私たちの理解者だから。
そういう世界を分かる。
ある考え、ひとつしかない生命。
幾つも分かるには文字がいい。
人間は実際的な機能性に準じたら何でもいい
のか、むしろ逆に試されてまで機能を持たな
ければいけないのか。
大きな分かれ道。
私が分かるのはこの辺り。

翌日になると、
晴れたら見えた太陽の下、公園で一服。
その後、自転車で郊外へ。
複雑な考えが自転車に乗って走っていく。
或いは、複雑な世界の中を。

乱雑に置かれたシュレッダーが何故誰も
整えないのかは言わなくても分かる女は、
手帳を見つけた。
シュレッダーは自動透視装置。
何故なら誰にも分からなくなるから。

さっきまだ先にある店先のお弁当。
後で買いに。


続く

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