190_TORO Y MOI「Underneath the Pine」

省吾さんが外国に旅立ってから数年が経とうとしていた。その間に、私は大学を卒業して会計事務所に就職した。愛菜ちゃんも努力の末、無事第1志望の大学に合格した。彼女と一緒に大学まで合格発表を見に行ったのだが、恥ずかしながらものすごく緊張した(私の場合は、推薦入試で面接と論文で既に早い段階で合格が決まっていたので、いわゆる大学の合格発表を自分の目で確かめるという経験を味わったことがなかったのだ)

今は彼女もキャンパスライフを満喫している。私は仕事をはじめて自分の人生という舟のオールを漕ぎ始めた感覚を覚えはじめた。それぞれ忙しくなったせいか、なかなかお互いの自由な時間が取れない。たまの休日にランチをしたり、お茶をする程度で、以前のように彼女と顔を合わす機会というのも格段に減った。省吾さんの話題は彼女と会った時に、ポツリポツリと聞く程度だった。何しろ、本人からの家族への連絡などもめっきり少ないし、「元気でやってる」とかそんなそっけない内容ばかりだからだろう。私の心の中で、だんだんと彼の実体の輪郭がぼやけていくようなそんな感覚にとらわれていた。それはそれで仕方のないことなのだろうか。私は言いようのない欠落感のようなものを覚えていた。

その間にも、私の周りの世界は刻々と変化していくことになった。一つ大きな出来事が私の中であった。3歳年上の姉が学生の時から付き合っていた同級生と結婚し、結婚式に親族として出席したときのことだった。私がデザートビュッフェのケーキをいそいそと自分の分を取り分けようとしていた時に(私は甘いものに目がなかった)、ケーキをちょうど隣にいた男性のスーツに盛大にぶちまけてしまった。新郎側の友人であろう男性が着ていた上等そうなスーツはクリームまみれになってしまって、私はその場でひら謝りに謝った。やってしまった。こうなってしまうと、なんの取り繕いもできない。
「す、すいません、本当にすいません。クリーニング代はお支払いいたしますから」
「大丈夫ですよ、そんなお気になさらずに」
「いえ、本当に。あの、申し訳ないので、必ずお支払いさせてもらいます」
「では、そうですね。連絡先だけ渡しておきますんで」
彼はスマートに上質なペンで名刺の裏にLINE IDを書き込んで私に手渡した。手渡した彼の手から爽やかな香りが漂う。「大沼弁護士事務所 主任弁護士 大沼雅貴」名刺にはそう書いてあった。私は彼の残り香の残る名刺を新婦の親族席のテーブルの上で眺めていた。

なんとなく引っかかったような気持ちで、式から2週間が経った頃ぐらいに、大沼さんから連絡があった。
「大沼です。クリーニング代は大した金額ではありませんでした。5,000円程度です」
「わかりました。それでは、大沼さんに直接お金をお渡しに伺います」
「そうですね。それであれば、差し支えなければ、そのお金で私にランチでもご馳走していただけないですか?」
これって、私とご飯を食べたいってことなのかな。少しギョッとしたが、彼からの提案がスマートにあの名刺のように私の胸に差し込まれている。こうやっていろんな女の子を誘っているのかな。結婚式で受けた彼の印象を必死に思い出そうとした。弁護士という肩書きもあってどちらかと言えば堅そうな雰囲気ではあったのだけど、こんなことを言い出すのなんて。それもまた一つのギャップだった。彼が魅力的な男性であることは間違いのないことだった。

「はい、わかりました。大丈夫です」
「それでは、こちらでお店を探しておきますね。何かお好みだとか、苦手な料理とかはありますか」
「特にありませんので、お任せいたします」
お互い何とも丁寧な口調でメッセージが重ねられていくのを淡々と眺めていた。意図しない大きな流れに自分の乗っている小舟が流されていくような不思議な気分だった。このまま私はどこに向かうんだろうか。大沼さんあてのメッセージを返して、スマホの電源を落とすと、暗い画面に自分の瞳が映っている。私は久しぶりに省吾さんの眼差しを思い出していた。彼の瞳のような輝きを持った男性は未だに出会ってはいない。それはいまも変わらない。ただ彼は自分の目の前にはいないのだ。絶対的な距離というものが二人の間に存在していた。

「ご無沙汰しています」
「この前は大変失礼致しました」
「いいんですよ、僕はまったく気にしてませんから。」
「そうですか。よかった」
「こうやってあなたと一緒に美味しいご飯も食べられるし。むしろ儲けものです」
「そう言っていただけると」
待ち合わせたあとは、彼は当たり前のように、ごく自然に私をエスコートして、洒落たイタリアンのお店まで二人して歩いてやってきた。やっぱり前会ったときと同じように、スマート過ぎて違和感を感じるほどだった。カジュアルなチェックのジャケットの下にオックスフォードシャツ。なんて隙のない格好なのだろう。相変わらず爽やかな香りが漂って、私の感覚は彼の手の中にあるようなものだった。
「ランチのコースが美味しいんです」
「よく来られるんですか」
「2、3回くらいですけど、味は保証しますよ」
「楽しみです。おなか減っちゃって」
「パスタは絶品です。トマトとクリーム、どちらかが好みですか?」
「私はトマトかなあ」
「じゃあ、僕はクリームで」
彼がはにかんで笑ったのを見て、私も少し固さが取れてきた。
そして私は思いの外、リラックスして話している自分に気がついた。そうだ、自分はこの人といることに心地よさを感じている。だけど、よくわかっていた。この心地よさは周到にお膳立てされたものであって、自分で望んで手に入れたものではないのだということに。

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