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一万年生きた子ども――統合失調症の母をもって| 第5回 みちこ姉さん

小学校2年生のとき、母が統合失調症を発症。私は生き延びるために、「一万年の子ども」になった――。単行本化を記念して、ナガノさんの子ども時代が描かれた第1~10回を公開します。

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母は万年床で寝ているか、街を徘徊しているか、電話しているかのどれかでした。特に、母の兄弟たちに立て続けに長電話していました。会話に耳を傾けると、私の知らない母の一面が、その端々から聞こえてきます。17歳の頃に父と出会って結婚したこと。そして、それを母の多くの兄弟が反対したこと。母がいわゆる後妻の子どもであったということ。母には9人の兄弟たちがいて、異母兄弟のうちの上から4人とは、年がものすごく離れていました。

母は小さな頃に母親を亡くし、棺が焼かれるところを目にしました。だから、母親が業火に包まれて「熱いよ、熱いよ」と言う夢に苦しめられたのです。そんな経験をしたことで、母は子どものようにお化けを怖がっていました。私も母譲りでお化けが恐ろしく、中学生になるまで姉に一緒にお風呂に入ってもらっていました。そして、姉と同じ布団で、姉がくの字になったところに同じ格好をして、ぴったりはまるように寝ていたのです。本来、それは母の役割であったかもしれません。でも、母にはそれが期待できないので、姉に世話になっていたのです。姉は文句も言わず、私の世話をしてくれました。

母の父は、明治生まれの頑固な人だったといいます。母の兄弟たちがテレビに夢中になっているのが気に食わず、裁ちばさみでテレビのコードを切って怒ったりしたそうです。母の兄たちは勉強がよくできる活発な人で、台風が来るとみんなで鎌倉の海にサーフィンに出かけるような人たちでした。

「お父さんとお母さんの戒名を教えて欲しい」
兄弟たちに震える声で電話します。私は母があちこち電話するのが好きではありませんでしたが、その必死な様子に黙っていました。17歳で家を飛び出して、働きながら定時制高校に行っていた母は、両親の位牌・写真などを持っていなかったのです。病気になった母は、自分の子ども時代のことなどを必死にたぐり寄せているようでした。

あるとき、父が「ママは子どもの頃、大変だったんだよ」と幻聴のままに惑わされている母の様子を見て言いました。私は、子どもに戻ってしまっている母を守らねばと思いました。一万年生きる子どもであるとはそういうことなのです。

戒名を教えてもらうと、母は帰宅した父に「この戒名を筆できれいに書いて」と赤い千代紙を差し出します。母は字を書くのが得意ではありませんでした。学校の勉強が全くできなかったからです。病気になってからは、カタカナもあやしく、「ぎゅうにゅう(牛乳)」のことを「ぎーぬー」と書いておつかいメモを渡してくるような人でした。一方、父の字はパソコンで描いたように、美しく整っています。父はよく、数学の公式などを方眼用紙に書き写して勉強していましたが、そのでき映えは印刷された出版物のようでした。父は筆でまっすぐとした楷書で戒名を書きました。

「仏壇、買うお金ないから」
母は額縁にきらびやかな和柄の布を敷くと、戒名を書いた赤い紙を中央に乗せました。
「ここが、いいんじゃないの?」
姉が指示したピアノの横に父が釘を打って飾ります。母は満足そうでした。母には母がおり、そして、早くに逝ってしまった。私はそんな事実に実感が持てませんでした。ともかく病弱だったらしいその人は母の記憶の中でやさしく美しくあるようでした。大正生まれの女はかすれるように細く、消えてしまいました。写真も映像も文字もなく、ただ、子どもの記憶の中でかすかに残っています。それを思うと、母が幻聴を聞くようになって、ようやく自分の子ども時代を取り戻そうと寄せ集めているさまに、涙がでてくるのでした。

目の前で父母の戒名を並べて見ている人がどうしても自分の母親には思えず、小さな子どものように見えるので、私は戒名の書かれた額縁を常に優しい目線で見ました。それを守るような視線を覚えました。「キチガイ」をみるやつらとはまったく真逆のまなざしで包もうと思いました。


母が特によく電話していたのは、同じく統合失調症のみちこ姉さんでした。みちこ姉さんは異母兄弟で母とはとても年が離れていました。そして、母はみちこ姉さんにいじめられていたと言います。みちこ姉さんは飛び切り勉強のできる人でしたが、母が思春期に差しかかる頃には病気を発症し、辛くあたってきたというのです。幻聴が出ていましたが、よく勉強のできるみちこ姉さんがそんなふうになるわけないと、誰も病院に連れていきませんでした。だから、今もよくならず、病気を拗(こじ)らせてしまっているのです。

母の8人の兄弟たちはみんな勉強がよくできました。地域で一番勉強ができる高校にみんな行っていて、母だけがまるでできなかったといいます。けれども、母はとびきり絵が上手かったのです。なんで母が自分をいじめてきたみちこ姉さんを気遣うのかは、私には謎でした。しかし、よく電話していました。

母がみちこ姉さんに会いたいと言い出しました。父が休みの水曜日に、家族で訪ねます。父はスーパーの店長という仕事柄、土日は休めないのです。あんなに会いたいと言っていたみちこ姉さんの家は、家から一時間もかからないところにありました。今の私なら、すぐに会いに行ける距離です。でも、当時の母や私にとっては、父に付き添ってもらわないと行けないとも思えるほどの遠い距離でした。

みちこ姉さんはみんなが出ていってしまった実家に、一人で住んでいました。家は廃墟でした。平屋の屋根はところどころ雨漏りして、雨を吸った畳がうねるように盛り上がっています。部屋には隙間風がビュービュー入ってきます。その頃は確か冬でしたが、外の気温と家の中はさして変わりませんでした。こんなところでどうして人が生活できるのだろうと、私は遠慮がちに家の中に入ります。靴のまま上がってもいいような場所でしたが、私は靴を脱ぎました。障子紙にはネズミがかじった後があり、漆喰の壁はぼろぼろと崩れ落ちてきます。


みちこ姉さんは雨漏りのしない奥のほうに布団を敷いて、くるまっていました。私たちが訪問しても起き上がる様子はなく、母はみちこ姉さんに駆け寄りました。
「みっちゃん、大丈夫? 病院行ってる?」
自分も病気なのに、母はみちこ姉さんを心配しているようでした。
「病院はもういいの」
みちこ姉さんは、一人暮らしです。誰も病院に行けと言ってくれたり付き添いをしてくれるわけではありません。お金はどうしていたのか、今となってはそれもわかりません。確か、兄弟たちから送ってもらっていたような気がします。

今であれば、生活保護などをとって、誰かみちこ姉さんをケアしてくれる存在が必要だとわかります。母は家族があるだけましなのかもしれません。まだ偏見がひどかった統合失調症という病を原因に離婚された人たちが、当時はたくさんいました。杉見クリニックで仲良くなった女の人たちは、「あなたは離婚されないだけ、いいね」と母に言いました。

私はゆがんでいない畳の上に座って、おとなしくしていました。隙間風がぴゅーぴゅーと吹きます。父や姉は土間のほうにそれぞれ立っていました。小学生の子どもであれば、待ちきれず「帰ろう」と言ったり、騒いだりはするでしょう。でも、私はそれを決してしませんでした。一万年の子どもである私は、母のしたいようにさせることを自分の使命としていたように思います。そして、それがいわゆる世間の常識から極度に外れないようにコントロールする役目を負っていました。それは、私が安全であるためにそうしなければならないのです。世間の常識から外れた途端、世間の人びとというのは一斉に冷たい侮蔑の視線を向けてきます。私はそれが辛く苦しいのです。私は母と世間の常識のあいだで板挟みでした。それを自分のコントロール一つで乗り越えてみせる。それが、一万年の子どもである私に課せられたものでした。

でもそれはあまりに重い役割で、できる人など誰もいないことなのです。当時の私はそれに全く気がついていませんでした。母の幻聴をよく理解し、世間の常識に通じ、一万年生きた自分であればできると思っていました。おそらく、それができるとすれば、神だけでしょう。私は神の領域に踏み出していたのです。一万年生きる子どもであるとは、もう人間ではなくなるということなのです。黄金の体を持って、どんな大人より、神に近づくことができる。そうした意識のことでした。

今、みちこ姉さんと廃墟で会っている母は世間の目からは逃れているので、私も母も安全でした。それに父も姉もいます。私はある種、安心感を持ってこの会合を見届けていました。

みちこ姉さんは、母と同じように万年床で寝ているようでした。布団に寝そべったままのみちこ姉さんに母は何事かを話しかけていますが、こちらまでは聞こえてきません。統合失調症に苦しむ母には、やはり統合失調症に苦しむみちこ姉さんの気持ちが一番理解できるのでしょう。母はおそらく「病院に行くように」と説得しているのです。それは、電話を通して今や大人になった兄弟たちも、みちこ姉さんに言っていることでした。けれども、みちこ姉さんは頑として病院には行かないのです。

統合失調症という病には「病識」(自分が病気であるという自覚)というものがないとよく言われます。幻聴や幻覚を本当のものだと信じ込み、妄想の世界を現実世界として生きているのです。みちこ姉さんも病識というものがありませんでした。母は少なくとも病院には通っているので、病識がありました。それは、東田病院に強制入院させられ、その劣悪な病院から逃れるために言われるがまま大量の薬を飲み、模範患者として家に帰るという目標から得られたものです。母は自分が病気なのは間違いないけれども、東田病院では治らないことを知ったのです。

みちこ姉さんは私と姉にお菓子をくれました。万年床で寝るみちこ姉さんの心ばかりの歓迎です。私たち子どものことを思ってくれているのです。
 私はただお菓子をくれたことだけは覚えていますが、そのときのみちこ姉さんの様子を思い出そうとしても思い出せません。私の中のみちこ姉さんは、部屋の奥のほうで布団にくるまって、母が必死に話しかけているさまなのでした。

「ママ、もう、いいでしょ? 帰ろう」
どれくらい経ったでしょうか、父がそう切り出します。
「まだ、帰らない」
母が譲りません。こうなってしまうと、誰も説得することはできません。姉も父も私もそのことがよくわかっていました。結局、その日はお昼過ぎから夕暮れ近くまでみちこ姉さんの家にいました。

母が何をもってして満足したのかはわかりませんが、その後もみちこ姉さんが精神病院に行ったという話はしばらく聞きませんでした。

(『REDDY』での連載に加除・修正を加えています)

ナガノハル……1979年、神奈川県生まれ。双極性障害II型という障害をかかえながら、日々の苦労をまんがにすることをライフワークとしている。著書に『不安さんとわたし《当事者研究的コミックエッセイ・総ルビつき》』『不安さんとはたらく』(山吹書店)がある。

『不安さんとわたし《当事者研究的コミックエッセイ・総ルビつき》』

不安さんとわたし


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