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一万年生きた子ども――統合失調症の母をもって| 第1回 黄金の体と一万年の心が目覚めるとき

小学校2年生のとき、母が統合失調症を発症。私は生き延びるために、「一万年の子ども」になった――。単行本化を記念して、ナガノさんの子ども時代が描かれた第1~10回を公開します。

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過ぎていってしまう時間が惜しいという悲しみが、ずっとあります。ああ、私もこうやって、いつの間にか年老いて死ぬのだなと感じ、切なくなるのです。

「死にたくない。永遠に生きていたい」
10年ほど前、自殺未遂をしたこともある私が、最近はそう思うようになりました。しかし、それよりずっと前、子ども時代の私は、永遠に生きていけるような黄金の体と、一万年生きている心を持っていました。神にも近い存在であるという意識を持って生きていたのです。それは、それくらい万能じゃないと生きていけないという状況で生み出された、命の爆発力でした。

私の母は統合失調症です。
私がまだ小学校二年生の頃に発病しました。当時はまだ、「精神分裂病」という名前で呼ばれ、差別が酷かった頃です。我が家では「キチガイ」という言葉は禁句でした。それは、外に出ればたくさん聞こえてくる言葉だからです。  

「ママ、お姉ちゃん。駅だよ、降りなきゃ!」
「うるさい!」
自分を起こそうと必死な娘の頬をひっぱたいて、母は電車の床に大の字になってしまいました。火がついたように熱い頬。普段は決して手を上げない母でした。偶然ぶつかってしまったのかもしれません。椅子に座って、眠ったまま起きない姉。「あの母親なに? 子どもがかわいそう」という囁き声。哀れみと奇異の視線。

それは、杉見クリニックからの帰りの電車の中でした。薬の影響で眠気がひどく、呂律もまわらず、寝込んでしまうと起きない母。股をおっぴろげて、今にも椅子から落ちそうです。私はそれがとても恥ずかしいのですが、どうすることもできません。わずか8歳とはいえ、周りから見て恥ずかしいこと、世間でやっていたらおかしいことの区別はつきます。けれど、病気の母には、もうそういう意識はまったくありません。脛毛がぼうぼうの足を出したままです。そんな母のために、乗り換えの必要がないよう、いつも鈍行の電車に乗りました。最寄りの駅で降りなければいけないと私は常に緊張して電車に乗っていました。姉も鬱病にかかっており、二人とも薬の影響で正体をなくすほど寝込んでいるのです。

母から頬を叩かれたとき、電車の床に大の字になられたとき、私は意識が変容するのを感じていました。この惨状を目にしても、周りの大人は誰一人として助けてくれません。みんな、遠巻きにして見て見ぬふりです。私がなんとかしなくてはいけない。30秒あまりの停車時間のうちに、なんとか二人を降ろさなければ。

そのとき、私の体は黄金に変化したように強くなりました。心は偉大なる人々と連なる時間へと繋がり、すべてを完璧に采配する賢者のように落ち着いたものになりました。
「早く降りなきゃ」
私は母をなんとか起こし、姉を引き連れて、転がり落ちるように駅のホームにへたりこみました。私はそのときから、本当の大人になってしまうまで、黄金の体とともに、「一万年生きてきたかのような大人の心を持った子ども」として生きていたのです。大人たちが幼くてかわいいと思っていました。私は8歳あまりで、神にも近い完璧な存在と意識を得たのです。それが私の「生きたい」という命の爆発でした。統合失調症の母、鬱病の姉、スーパーの店長をしていてほとんど家にいない父。そんな環境で生き抜くためには、そうなるより他にはなかったのです。私は子ども時代を捨てて、生存戦略を図りました。

母は日本画家を目指していました。ベイブリッジの建設が大黒ふ頭で始まり、母はその建設の様子や鳶の人々にいたく感動し、それを絵の題材としようとしていました。私と姉を正面から描き、背景に建設中のベイブリッジ、そして、海のうねりがあるという構図です。

母は学校が終わった私と姉を連れて、毎日のように大黒ふ頭に通いました。母が絵を描く間、私と姉は近くの公園で遊び、母から時々モデルになってほしいと言われると、しぶしぶベイブリッジを背景に立ちました。

母は、自分の食事を取るのも惜しんで絵を描きました。いつもバックにはカロリーメイトが入っていて、私は時々おやつとして貰うのが楽しみでした。

母は専業主婦でした。ぬか床にきゅうりやナスを漬け、味噌汁の鰹節はわざわざ毎日削り出していました。生活に一切手を抜かないのです。そんななかで二人の娘を育て、なおかつ日本画にも精力的に取り組んでいました。父は仕事が忙しく、母の家事をあまり手伝っている様子はありませんでした。母はいつもヒステリックに怒っていました。思えば、統合失調症になる以前から、精神の調子はよくなかったのかもしれません。

そんな母が本格的に病気になったのは、家を購入し、そのリフォームとベイブリッジの絵の本画の仕上げが重なったときでした。母は小さな頃に両親を亡くし、年の離れた兄妹たちに育てられ、17歳で父と結婚しました。家事を教えてくれる人は誰もおらず、家事雑誌を買って、それの通りに家事をしていました。特にお正月は盛大でした。クリスマスが終わると、黒豆を石油ストーブで煮る作業が始まります。皺のない黒豆を作るのはとても難しいと母はいつもでき上がったしわしわの黒豆を見て残念がっていました。栗きんとん、田作り、伊達巻き、梅の甘煮、富士山蒲鉾、日の出みかんなど、手のこんだ料理たちでした。それを一週間くらいかけて作るのです。今にして思えば、そんなに主婦業に手を抜かず、子育てもしながら、本格的な日本画を描くというのは無理なことでした。

母は、日本画家としての最高峰である日本美術院展覧会(院展)の入選を目指していました。家事が片づいた後の夜中からが、母の絵を描く時間です。母は睡眠時間を削って絵を描きました。その頃から絵が少しずつ認められ始め、偉いお坊さんから「肖像画を描いてほしい」という依頼も舞い込んできていました。母は意気込んでいたのだと思います。

東田病院の入院のきっかけを、私はほとんど覚えていません。あまりに苛烈な体験は忘れてしまうのでしょう。いつか、思い出すときがくるかもしれません。入院する以前、母が目の痛みと頭痛を訴えていたことは覚えています。今回、原稿を書くにあたり、改めて確認したところ、幻聴がきっかけで、父が探してきた東田病院に入院させられたということでした。それは強制入院に近いものだったと思います。

病院の隔離室には、鉄格子がついていました。一度お見舞いに姉と行ったとき、母はトレードマークの長髪をざんばらなショートカットに切られていました。そして、似合わないスウェットの上下を着て、ものすごくゆっくりの動作になっていました。薬の副作用だと思います。私は母の自慢の黒髪が切り落とされていることに非常にショックを受けました。今なら考えられないことですが、当時はお風呂に入れるのが楽だとかそういう理由で髪を切られていたのです。大量の薬を飲まされ、薬を拒否すると隔離室に入れられてしまう。母は一刻も早く従順で大人しい患者を演じ、病院から脱出することを考えていたと言います。

母はおそらく3週間ほどで退院しました。食事が取れなくなり、ガリガリに痩せていました。私や姉は、母のために飲み込みやすいゼリーやヨーグルトを買ってきて、母に渡しました。母の痩せ衰えた姿が悲しかったです。そして、それから母の精神病院探しが始まるのです。東田病院でうけたひどい仕打ちのことを母は忘れません。東田病院では治らないことをわかっていたのです。小学校から帰ると母は色んなところに電話をかけていました。インターネットのない時代です。病院探しは苦労しました。区の保健所などに聞いていたかと思います。

そして、とうとう見つけたのが杉見クリニックでした。家から最寄り駅までバスに20分乗り、鈍行の電車に揺られて40分、そこからものすごく急な坂を登って30分。杉見クリニックはとても不便なところにありました。そこにはたくさんの精神病患者が来ていました。坂を登っていると、患者たちが途中で休憩をしています。私や母もその道行に連なりました。患者たちは健康な人と様子が違うので、すぐ見分けがつきます。私はそこで、精神を病んでいる人の独特な振る舞いを学びました。眉の下がった不安な目、口で呼吸しながら震える唇、なかなか用件を言い出せないどもりと呂律の不自然さ、お腹だけがつきでた奇妙に太った体、引きずる足、財布と診察券を握りしめて震える手。

杉見先生は「あの坂を登るのは大変だろう。健康な人の何倍もかかるだろう。あの坂を軽く登れるようになったら、きっと病気はよくなる」と言って、患者たちを励ましました。

私は、一万年生きてきたかのような大人の心を持った子どもだったので、その患者たちすべてを愛おしく感じていました。杉見クリニックでは精神病者として差別されることはありません。みんな、同士なのです。私はなるべく患者たちに親切にしようと思いました。この患者たちも外の世界ではたくさん差別を受けているのです。

だから、杉見クリニックの帰り道の電車で頬を撃たれたときも、母に憎しみは湧きませんでした。ただ、私には黄金の体があること、一万年生きている意識であることに気がついたのです。私は何よりも差別を憎みました。人の目ばかりを気にしました。母に普通であってほしいと無理な願いをしていました。でも、母を憎みはしなかったのです。

(『REDDY』での連載に加除・修正を加えています)

ナガノハル……1979年、神奈川県生まれ。双極性障害II型という障害をかかえながら、日々の苦労をまんがにすることをライフワークとしている。著書に『不安さんとわたし《当事者研究的コミックエッセイ・総ルビつき》』『不安さんとはたらく』(山吹書店)がある。

『不安さんとわたし《当事者研究的コミックエッセイ・総ルビつき》』

不安さんとわたし


『不安さんとはたらく』

不安さんとはたらく


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