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一万年生きた子ども――統合失調症の母をもって| 第9回 霊感といじめと授業参観

小学校2年生のとき、母が統合失調症を発症。私は生き延びるために、「一万年の子ども」になった――。単行本化を記念して、ナガノさんの子ども時代が描かれた第1~10回を公開します。

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私が小学校5年生のとき、先生と親の面談というものが一度ありました。伝えないこともできたのに、私は母に伝えました。それがどういう心持ちであったかわかりません。一目で病気だとわかる程度には、母の症状が酷かった頃です。

「先生、うちの子は超能力があるんです」
面談で母が突然切り出しました。その頃、母は私を特別な子どもだと思っていて、超能力があると信じ込んでいました。私にはもちろんそんな力はありません。まさか先生にそんなことを言い出すと思っていなかった私は、唖然としました。
「ママ、そんなもの私にはないよ」
私は必死に否定しました。このどうしようもない状況。母の妄想と現実をコントロールしていた一万年の子どもの私は怯えます。先生がなんと答えたかは覚えていませんが、私の母が普通ではないということはわかったようでした。そこで差別的なことは言われなかったと思います。しつこく「超能力がある」という母を、先生はのらりくらりとかわしていたと思います。

熊屋先生は私のことを高く買ってくれている先生でした。「三コ」という童話をモチーフにした絵を描く図工の授業のとき、ことさら私の絵を褒めてくれ、みんなの前に掲げてくれたりしました。特に私はできの良い子として認められていたと思います。みんなからはひいきされていると言われたりもしていました。とにかく、学校では私は「優秀な子ども」としてうまくやっていたのです。そこでは一万年の子どもである必要はありませんでした。それは私の安息地だったのです。

けれども、その安息地も熊屋先生に優秀な子ではないとバレてしまったことで恐ろしくなりました。優秀な子どもとしての生活が全て終わってしまうのではないかと。けれども、熊谷先生は面談の後も特に「超能力」については言いませんでした。

しかし、同時に私は少しおかしいことをしていました。超能力はないとわかっていましたが、友だちに「霊感がある」と嘘をついていたのです。「あの木の下に女の人の気配がする」とか触れ回っていました。「霊感がある」ともう一人言っている子がいて、その子となんとなく話を合わせていました。放課後などは霊感があると言って作り話 をしていました。注目されたかったのだと思います。自分を特別の子どもだと思いたかった。みんなが私の話を興味深く聞いてくれるのがとても誇らしい気持ちでした。

子ども時代の私は、お話を作るのが得意でした。小学校2年生の頃は、休み時間になるとジャングルジムに2、3人ほどの子どもたちを集め、その子たちが登場するお話を作って聞かせていました。その「お話会」はどんどん人気になり、子どもたちが10人ほど集まるようにもなりました。そのときは架空の話としてやっていましたが、小学校五年生の頃は本当に霊が見えるように話していました。

当時は子どもたちの間で「こっくりさん」が流行っていました。「こっくりさん」とは降霊術の一種です。A4の用紙に五〇音表と「はい・いいえ」の選択肢などを書いて、2、3人で一つの鉛筆を持って「こっくりさん、こっくりさん、おいでください」と唱えるとこっくりさんが鉛筆に宿り、質問になんでも答えてくれるというものです。こっくりさんがうまく帰ってくれなくて狐憑きになり、死んでしまった子がいるという噂もあり、子どもたちにとってはスリルのある遊びでした。そんな子どもたちの間で、「霊感がある」とはヒーローだったのです。

他にも、私はこの頃やってはいけないことをしていました。それはいじめです。ゆめちゃんという女の子を3カ月ほどにわたって無視し、いじめのリーダーとして君臨していました。グループで遊ぶときは、ゆめちゃんの悪口を言って団結しました。他にもそのグループ内でヒエラルキーの低い、植松さんという人を子分として使っていました。私は精神病の差別の被害者でしたが、同時に、この頃になるといじめの加害者となっていました。自分が悪いことをしているという意識もありませんでした。私は注目される霊感少女であり、いじめの主犯格でもあったのです。

そして、それは終わりを迎えます。熊屋先生にいじめのことがバレてしまったのです。熊屋先生は、私ともう一人、特別に仲の良い女の子を廊下に呼び出しました。
「ゆめさんをいじめているんですか?」
私はそう言われて初めて自分がいじめているということが実感できたような気がしました。
「はい」
「いじめはやってはいけないことだから、きちんと謝って、やめるように」
熊屋先生はごく短く注意しました。私は熊屋先生の前では優秀な子どもでありたかったので、効果は覿面(てきめん)でした。その後、すぐゆめちゃんに謝りました。ゆめちゃんはなぜか許してくれました。そして、その後、友だちに戻りましたが、ゆめちゃんがどこまで心を開いてくれていたかはわかりません。


ある日、授業参観のお知らせが届きました。私は母に告げるかどうか迷いましたが、一応知らせました。そして、「こなくていいよ」とも言いました。母は当時、杉見先生の勧めで働いたほうがいいと言われ、大きなお菓子工場で働いてクビになったばかりでした。クビの理由は、乗ってはいけないワゴンの上に乗ったからです。当時は大らかだったのか、精神病の母でも雇ってくれたのでした。母はしばらく、大人しく勤めていましたが、どうしてもワゴンに乗りたくなってしまい、そして乗ったのだそうです。クビになった母は、「ワゴンに乗ったのは楽しかった」と私に語りました。まるで子どものようです。

そんな母でしたから、授業参観でも何かやらかすのではないかと私は不安だったのです。でも、なんで、黙っているという選択肢を使わなかったのでしょう。多分、少しは来て欲しいという気持ちもあったのだと思います。母は精神病でしたが、私に辛く当たるということはしませんでした。彼女なりのやり方で確かに愛してくれてはいました。妄想が激しくてもそれは、私や姉を守る方向にぜんぶ働くのです。だから、私は母の愛を疑ったことはありません。それは、とても幸運なことです。母は精神病になっても、母であることはやめなかったのです。その点に関して私は絶大な信頼を置いていました。ただ、その愛し方が問題なのです。

授業参観の当日、私はドキドキソワソワしていました。母が来たらどうしよう。自分から言ったのに不安になりました。母は万年床から抜け出ることはできないはず。だから来ない。授業が始まるまで、学校中を探しまわります。

そして、授業参観が始まりました。母は来ていないようで、ほっとした頃、他の教室で何か叫び声がしました。嫌な予感がして駆け出すと、そこには母がいました。母は私を探して、全ての教室を出たり入ったりしていたのです。私は顔から火が出るほど恥ずかしくて、母を引きずりました。呂律の回らない声で「ハルちゃん」と言っています。私の教室がわかった後も母は大人しく「参観」はしてくれませんでした。でも、先生たちは母を追い出すことはしませんでした。私はいっそ追い出してくれればいいのにと願いました。

私はとうとう、母が病気であることが学校に知れ渡ってしまったのです。一番恐れていた事態でした。家庭では一万年の子どもである私にとっての、唯一の居場所がなくなった瞬間でした。同級生たちから何か言われた記憶はありません。ただ、みんな一様に異様な沈黙を貫きました。それは、母の行いがそれだけ異常だったことの証明のようでした。同級生たちが差別的なことをしてこなくても、私は充分にダメージを受けました。もう、私は「普通」の子どもじゃいられなくなるのだ。一万年の子どもには、逃げ場がなくなりました。でも、それで良かったのかもしれません。私は学校で霊感少女だと嘘をついたり、いじめをしたり、もう、一万年の子どもであることに無理がきていました。今から考えれば、それは一万年の子どもであることのストレスによるものだったのではないかと思っています。常に世間と母の病気の軋轢を調整すること。無理なことを、ずっとやってきました。

そして、その頃、本当に私の体に異変が現れました。目を開けていたくても、勝手に目が閉じてしまうという症状に見舞われたのです。初めは脳神経外科に回され、筋ジストロフィーを疑われました。CTやMRIを撮られ、「先生の手を思いっきり握ってごらん」と言われ、ぎゅーっと握ります。その先生たちの優しいことに、私は安心していました。同時に自分が死んでしまう病気なのではないかという恐れがありました。筋ジストロフィーは全ての筋力が衰え、やがて死ぬ病だと思っていました。けれども、私はどこにも異常はありませんでした。そして、精神の病が疑われました。

母が当時通っていた杉見先生のところで診てもらうことになりました。杉見先生は独特の診察をする先生で、患者とあまり話をしません。ただ、一目見てわかってしまうようで、「はい、薬を変えるから、また次!」などと威勢のいい声で言います。患者たちがどんよりする待合室にマイクから「はい、次、長野さん!」とはっきりした声で呼ばれます。

どんな診察がされたか、あまり記憶にありません。ただ、「ハルさんは、躁病だから、この薬を飲むように」と言われて終わりました。あと、「ハルさんはわがまま」とも言われました。当時、私はことさら杉見先生にわがままだと言われることが多く、よくは覚えてはいませんがわがままだったのかもしれません。そのとき中学生だった姉も鬱で杉見クリニックに通っていて、姉はわがままとは言われませんでした。私はそれが不満でしたが、自我の強い子どもであったとは思います。

目が勝手に閉じてしまうことと、躁病がどう繋がるのか、私には未だにわかりません。そもそも、小学校5年生に躁状態ということがあるのだろうか? と疑問に思います。けれども、その薬を飲むと1カ月ほどで良くなりました。

私が一万年の子どもであることの限界が、刻一刻と迫っていました。一万年の子どもであるとは、幼くして苛烈な状態に追い込まれたとき、爆発する命に備わったプログラムのようなものです。それは、誰でも持っています。生き延びるために神に与えられているのです。けれども、それは長くは続きません。火事場の馬鹿力を出し続けられる人間はいません。
その力は失われ、代償は大きなものです。

子ども時代を子どもとして生きることを失われ、誰よりも大人として生きることは、永遠に子どもであることなのです。大人として成長できないことなのです。私はその後の人生をずっと、この代償と共に生きることになります。

(『REDDY』での連載に加除・修正を加えています)

ナガノハル……1979年、神奈川県生まれ。双極性障害II型という障害をかかえながら、日々の苦労をまんがにすることをライフワークとしている。著書に『不安さんとわたし《当事者研究的コミックエッセイ・総ルビつき》』『不安さんとはたらく』(山吹書店)がある。

『不安さんとわたし《当事者研究的コミックエッセイ・総ルビつき》』

不安さんとわたし


『不安さんとはたらく』

不安さんとはたらく


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