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一万年生きた子ども――統合失調症の母をもって| 第7回 李典教と幽霊

小学校2年生のとき、母が統合失調症を発症。私は生き延びるために、「一万年の子ども」になった――。単行本化を記念して、ナガノさんの子ども時代が描かれた第1~10回を公開します。

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私が小学校5、6年生の頃、母は新興宗教に通っていました。きっかけは、杉見先生が勧めたことからでした。「日本で一番大きな病院が李典教にあるから、行ってみると社会勉強になるよ」と言われたのです。

母はその通りにしました。今にして考えると、精神科医が新興宗教を勧めるとは何事かと思います。なぜ、杉見先生がそんなことを言ったのかも、今となってはわかりません。

ほどなくして、母は近所の李典教の道場に通うようになりました。道場は住宅街にあって、歩いていると突如として大きくて立派な門構えの瓦屋根の建物が現れます。地域からは浮いていました。でも、家から歩いて通える距離にあったので、私と母と姉は学校が終わると毎日のように行きました。
 お布施は月1万円ほどであったと思います。

李典教は開祖が女の人で、その人も精神病だったと言われています。だからなのか、母は李典教内ではとても丁寧に扱われました。社会で居場所を失っていた母を、唯一受け入れてくれた場所なのでした。

その頃の母は、妄想状態になることも幻聴のままにいろんなところに行ってしまうことも、もうありませんでした。それでもおそらく、幻聴は聞こえているようでした。私の目の前で幻聴と会話するといったことはしません。ただ、幻聴のいう通りに行動してしまうことがあり、それ以外は 一日中、家で寝ていました。幻聴は何か言ってきたのかもしれませんが、母が動ける状態ではなかったのでしょう。薬の副作用で太り、唇は震え、呂律が回りませんでした。外見から「健康な人じゃないな」とわかる様子だったので、社会に溶け込むのは無理だったのです。

李典教の道場には子どもたちもたくさんいて、私はどこか遠慮がちに遊んでいた記憶があります。そこの子どもたちも、決して母を差別したりしませんでした。しかし、私は別部屋にいる母の様子をいつも気にかけていました。母は道場の2階で横になっていることが多かったように思います。何か得体の知れない恐怖があるのです。何か悪いことが起こるに違いないという確信でした。安全な場にいてもなお、社会で差別され、近所で冷たくあしらわれてきた記憶が、私を安心させてくれません。

何か起きたらすぐ対応できるように準備しておかなくては。
常に最悪の事態を想定しなくては。

一万年生きた子どもの意識とは、そういうものです。常に万全に対処することが自分にはできると信じています。それは神の領域まで自分のコントロールを効かせるというある種、傲慢なことでした。 人間は最悪の事態に備えて準備しておくなんてことはできません。そして、常に最悪の事態を想定して生きることはできません。社会は根拠のない楽観視でできています。 私は一万年の子どもであることで、その楽観視を失ってしまいました。常に社会と母の精神病がぶつからないようにコントロールしなければならないと思っていたのです。

実際に、こんなエピソードがありました。大学一年生の頃、沖縄旅行に行くと母に伝えたときでした。「飛行機が落ちたら危ないから行くのをやめなさい」と母は説得してきました。また、私がアルバイトから正社員の仕事探しをしたいと言ったときには、「今の仕事があるのだから、正社員なんかならなくていい、今のままでいなさい」と言いました。母もまた「最悪な事態」を想定することでしか生きられない一万年生きた子どもだったのです。母は幼少期に母親を亡くし、異母兄弟の中でサバイバルしてきたのでした。

それに、今までに最悪な事態ばかりが起こりました。警察に保護され、近所では嫌がらせを受け、社会からは白い目で見られ、母は居場所をなくしていったのです。病院と家庭とほんの少しの親戚、これが母の世界の全てでした。私には学校と母しかありませんでした。

だから、私は李典教でも油断はしませんでした。一方で、李典教の人は母を全く差別せず、受け入れてくれるので、やっと息が吸えた思いがしました。李典教では、私は母の精神病と社会の間に入ってうまくいくようにコントロールしなくてよかったのです。母のことは母のことで、李典教の大人たちに任せておけば大丈夫でした。

そんな李典教への道場通いのなかで、信者は一生に一度、教祖の着ていたという布を御守りとしてもらえるという行事があることを知りました。そのためには年に一度開かれる行事に遠出しなくてはなりません。それは旅行を意味します。今までの私たちには、旅行することなんてできませんでした。病気の母が新幹線のチケットを取ったり、宿を予約することなんて、到底できません。

その行事には李典教の人が団体を組んで、一緒に連れていってくれることになりました。母が病気になってからした2回目の旅行です。1回目は母の病状が激しいなか、父が会社の福利厚生でもらった旅行券で熱海に行きました。母はとてもはしゃぎました。父と恋人同士のように振る舞って、楽しそうでした。父に寄り添って手を繋いだりしていました。でも、私は自分の服装やリュックサックが宿の豪華さと釣り合わないことに、恥ずかしい気持ちがしていました。私は、自分の家族が人から見て恥ずかしいものだという意識に、常に悩まされていました。人の目ばかり気にしていました。誕生日に奮発して買ってもらった自転車の後ろの荷台が錆びてしまっているのを、人に見られるのが恥ずかしくてたまらないように。何でも気にしていたのです。私は一万年生きる子どもとして、母を社会から守ろうと、その意識を立ち上げました。しかし、今や、母の細かな仕草や何から何までもを社会の枠から出ないように、がんじがらめにしようとしていました。

「普通であって欲しい」
私の願いはこの一つに尽きました。社会が母を差別してくることが悪いのに、私は逆転を起こしていました。母に罪など何もないのに。李典教では、母が「普通」でなくても誰も気にしませんでしたし、ケアしてくれました。だから、私は呼吸できたのです。

旅行は順調に進みました。李典教の施設に泊めてもらえることになり、御守りの布ももらえることになりました。それは五千円でした。法外な値段を取らない良心的な新興宗教であったのだと思います。私は本殿の磨かれた木の床を歩いて、何重にも閉じられた小さな部屋に通されました。そこは六畳ほどしかなく、奥には御簾が引かれていて、その先に御守りを渡す人がいました。

何度かお辞儀をして、両手で受け取りました。それは三センチ四方の小さな赤い布でした。この布は教祖が身につけていたありがたいもので、私は渡された大人から「怖いことがあったら、この御守りに祈るように」と言われました。小さな布を豪華な御守り袋に入れて、その上からビニールで首から下げれるようなストラップをかけてもらい、それを常に首から下げていました。

そのとき、私は一万年生きる子どもとして唯一の頼りができました。体にぴったりと安心が寄り添ってくれているように思います。李典教はお化けも退治してくれると教えられ、怖くなると「李典様、お化けを追い払ってください」とお祈りしていました。心の拠り所にしていたのです。祈るとき、私はただの子どもに戻りました。自分が神だと勘違いするような傲慢さからは遠のきました。ただの、宇宙の中の一つの、小さな小さな無力な人間にすぎないということがわかるのです。自分より偉大な力があると思うことは、人間を自由にします。特に、一万年の子どもであった私には必要なことでした。

神ではないこと。私にはそのことがもう、ずっとわからなかったのです。神の子として生まれてしまった。だから、私は神になるのだ。神と同等の黄金の体は何度でも蘇る。私の意識は一万年の宇宙と接続し、誰よりも大人である。全ての差別してくる大人たちは、かわいそうな愚かな小さな子どもである。そうすることで、私は苛烈な子ども時代を生き抜くことにしたのです。自分が無力でどうしようもなくかわいそうな一人の子どもであることを捨てたのです。実際、わずか8歳の子どもに、何ができたというのでしょう。何もできないのが本来なのです。でも、命の爆発力は私を誰よりも神に近しいものにしました。

李典教という宗教に出会ったのは、10歳のときでした。私はそこで神ではない時間を持つことができたのです。本当は恐ろしくてたまらない多くのこと、近所の住民からの冷遇、社会からの差別、常識とはかけ離れている家族、病気の母、それらと直面しました。でも、だからといって、一万年の子どもであることをやめたわけではありません。私はお化けが恐ろしいときに、御守りをよく使いました。暗闇に包まれた寝床にいると、どうしようもなく闇から何かが出てくるのではと思えるのです。それは、私の社会に対する不安だったのかもしれません。または万が一の事態に備える悪影響だったのかも。

私は特にトイレを恐れていました。トイレの穴から手が出てくるんじゃないかというイメージに悩まされていたのです。だから、夜にトイレに行くことは恐怖でした。座って用を足している間、「万が一、手が出てきたらどうしよう」と苦しいのです。そして、渾身の思いで穴を見ると手はありません。それの繰り返しでした。トイレの穴から手は出てこないのです。そんなことは起こらないのに、頭の中は手が出てくるイメージが去りません。私の生活を苦しめるお化けへの恐怖。それは本当にリアルに感じられるものでした。そもそも、生活に安心感を抱いたことなどあったでしょうか? いつもギリギリで、事件が起こって、それに対処するために自分を神と思い込む。そうして、無力さから逃げているのです。無力であったことを認めたら、私はおそらく生き残ることはできなかったでしょう。

私は李典教の道場通いを、友だちには誰にも言いませんでした。学校では「普通」の子どもでいたかったのです。でも、当時、恋人のように仲良くしていた萩原さんにだけは打ち明けました。萩原さんと私はニコイチの関係でした。常に一緒にいて、二人の間で秘密は一切なしでした。私は小学校に上がってから、この恋人関係のような友情をいつも育んできました。相手はそのたびに変わります。私の初恋は実際、女の子でした。小学校1年のとき、オカッパ頭で色白の物静かな彼女に恋をして、仲良くなったのです。何でもしてあげたいと思い、彼女が苦戦している自転車の練習に付き合ったりしました。彼女を守ろうと本気で思っていました。小学校5年からは、萩原さんがその対象でした。私と萩原さんには秘密がありました。それは、倉庫になっている空き教室にある段ボールで作られたポストの中で、お互いに持ってきたおやつを休み時間に食べるということです。萩原さんの持ってくるおやつは洒落ていました。サンリオのキャラクターの絵がついたマシュマロで、中に苺のゼリーが仕込んであるものとか、ミント風味のメレンゲとか夢のラインナップです。

私たちは秘密を分け合い、一心同体のように学校では生きていました。
「誰にも秘密なんだけど、こんな御守りを持ってるんだ」
私は洋服の中から豪奢な布に包まれた御守りを取り出します。
「怖いことがあったら、何でもお祈りすると大丈夫になるんだよ。でも、これは絶対に秘密。萩原さんにだけ教えてあげる」
萩原さんは神妙に聞いていました。御守りのことは萩原さん以外誰にもばれませんでした。彼女は約束を守ったのです。

李典教の道場通いはおそらく2年ほど続いたと思います。私が中学生に上がる頃にはもう、御守りもどこかに行ってしまいました。あんなに頼った神様はいなくなってしまいました。でも、確かにあの頃、母の居場所になり、そして私をお化けから助けてくれたのでした。

『REDDY』での連載に加除・修正を加えています)

ナガノハル……1979年、神奈川県生まれ。双極性障害II型という障害をかかえながら、日々の苦労をまんがにすることをライフワークとしている。著書に『不安さんとわたし《当事者研究的コミックエッセイ・総ルビつき》』『不安さんとはたらく』(山吹書店)がある。

『不安さんとわたし《当事者研究的コミックエッセイ・総ルビつき》』

不安さんとわたし


『不安さんとはたらく』

不安さんとはたらく


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