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8.「弱さと向き合う」居場所(谷田朋美)|私たちのとうびょうき:死んでいないので生きていかざるをえない

「私たちのとうびょうき」は、弁護士・青木志帆さんと新聞記者・谷田朋美さんによる往復ウェブ連載。慢性疾患と共に生きる二人が、生きづらさを言葉に紡いでいきます。今回は、谷田朋美さんの担当回です。

私を排除しないで、病気の私のそばにいて――。青木さんのことばに大きくうなずきながら、それって一体どういうことなのだろう、と改めて考えていた時、高校の3学年上の友人、沖本貴志さん(おっきー)と過ごした日々がよみがえってきました。

おっきーはことばを発さず、表情や身振りでコミュニケーションします。定員割れした地域の進学校に入学し、3年間学びました。「怒らないでください」と学校に配慮を求める青木さんの姿は、おっきーとも重なってみえました。だから、今回はおっきーとの関わりについて語ってみようと思います。

最重度の知的障害で高校に通った「おっきー」

私がおっきーと出会ったのは高校2年生の時のことでした。当時、中学から続く倦怠感や頭痛、下血などの症状に悩まされるも、大学病院で受けた精密検査では異常なし。自分でも根性が足りないのだと、「荒療治」とばかりに、「県代表は当たり前」の吹奏楽部でコントラバスを担当し、「やればできる」ことを自分に証明しようとしていました。とはいえ、厳しい練習に身体がついていくわけもなく、2年の秋学期に退部。勉強にも集中できず、保健室で休むことが増えていました。

こんな調子でどうやって生きていけるのか……。一人暗澹とした気持ちになっていた時、友人たちに「おっきーと一緒にランチしよう!」と誘われたのでした。おっきーって一体誰なんよ。そう思いながら友人たちの案内で廊下の奥にある普段鍵のかかった部屋へ。そこには、女子10人にぐるりと囲まれ、代わりばんこに食事介助を受けるおっきーがいたのです。

ここで少し、おっきーについて母の揚子さんから聞いた話を紹介したいと思います。
おっきーは1976年、仮死状態で生まれました。医療機関で「脳性マヒ」と診断され、最重度の知的障害があるといわれました。小学校高学年から地域の普通学校で学びましたが、中学卒業後は、同級生のほぼ全員が高校に進学する中、自宅で過ごす日々が続きます。揚子さんによると「一日中、壁を叩いたりガラスを割ったり、鼻血で床が真っ赤になるまで暴れた」。父親はおっきーが中学2年の時にがんで亡くなっており、女性ひとりの力では止めることが難しく、「このままでは殺してしまうのでは」と危機感を覚えたそうです。なぜ暴れるのか分からず途方に暮れていた時、高校に登校する同級生をじっと見つめる姿にはっとしました。一緒に高校を訪れると、おっきーは同級生が出入りする玄関に座って離れようとしません。その時だけは落ち着き、表情が和らぎました。「同世代の友人と出会いたい」という思いが伝わってきました。おっきーはそれから3年間、高校進学を求めて母校の玄関にどんなに寒い日も座り込み続けたのです。

4年目に高校が定員割れとなり、入学が決まりましたが、同級生が卒業した後の学校生活は厳しいことの連続でした。入学式。揚子さんはおっきーの入場を待っていましたが、最後まで入ってこないまま、体育館のドアは閉められ、式は始まりました。「玄関に居るんだな。貴志らしいな。不合格にされた3年間の思いがある。晴れて高校生だと皆に合わせられるものでもなかっただろう」。揚子さんはそんなふうに感じたといいます。

まもなくクラスメートから「(おっきーは)迷惑な存在」といった内容の作文が提出され、学級懇親会では保護者からも「義務教育までなら分かる」「親が『迷惑をかけている』と頭を下げないことに憤りを感じる」といった発言が噴出しました。青あざをつくって帰宅する日が続き、両足に針のようなとがったもので十数カ所刺される傷害事件も発生しました。何度も学校と話をしましたが、思いはなかなか伝わっていきませんでした。

ただ、手話サークルの生徒と交流が始まったことなどを機に、学校にも少しずつ変化が起こったようでした。卒業式では、寄り道したり座り込んだり、10分かけてゆっくり歩いてくるおっきーを生徒全員が待ったといいます。

おっきーが教えてくれた「病をさらして生きること」

私はおっきーの卒業と同時に高校に入学したため、当時の高校生活を知りません。友人たちによると、1年生の時、入部した手話サークルの先輩たちから「『学校に障害者がいてもいじめることしかできないのか』と他校の生徒に言われて悔しかった」という話を聞き、おっきーと一緒に活動したいと「障害者解放研究会」というサークルを立ち上げたのだそうです。

最初は障害者解放って一体どんなことを目指すのだろう?と思いましたが、主な活動といえば、昼時に高校に遊びに来るおっきーとランチをすること、放課後は高校近くの民家で、おっきーが実家を出て地域で暮らすために必要なことを考える「沖本塾」の時間を持つこと――の二つ。「沖本塾」といっても、基本的には地域の人や障害のある人、高校教員らも一緒になって、和気あいあいと皆で世間話をしているだけなんです。どんな話でも皆が受け止めて聞いてくれるので居心地が良く、気づけば入会していました。


おっきー(左)と高校卒業したばかりの筆者。一緒に旅行した際に撮影した一枚。

忘れられないことがあります。入会して間もない頃、スプーンで卵焼きをすくっておっきーの口に運ぼうとすると、それまで友人の介助で美味しそうにご飯を食べていた彼が横を向くのです。「あれ。おっきー、卵焼き好きじゃなかったっけ」という友人の何気ないことばにどきっとしました。ご飯をこぼし、よだれを垂らすおっきーを「汚いなぁ」と思ってしまった私の気持ちが、おっきーに伝わっているのだと思いました。彼のそばにいてよいものかと思い悩むようになりました。ある時、おっきーに自分の気持ちを打ち明けたところ、隣で聞いていた揚子さんが涙をこぼしました。「ああ、やっぱり傷つけてしまった。どうしよう」。そう思った時、「ありがとう」と言われて驚きました。「自分の『弱さ』と向きあうことの大切さを伝えたくて、貴志は高校に入ったんよ」と。今思えば、強くいられないことで追い詰められていた私の居場所を、おっきーが作ってくれたんですね。

月に一度は、施設や家を出て地域で暮らす障害のある人たちとキャンプやバーベキューなどさまざまな場所に出かけました。皆、「遊びにおいで」と気さくに自宅に招いてくれ、「誰にも頼らんと生きるんが自立じゃない。福祉制度や地域の人やさまざまなもんに頼って生きていったらいいんよ」と教えてもらいました。「調子が悪くてもやっていけるんだ」と勇気づけられ、気持ちが楽になりました。

高校3年の時には、身体障害のある人にしか演じられない身体表現を追究するパフォーマンスグループ「態変」(金満里代表・大阪市)の広島公演「ラ・パルティーダ―出発」におっきーたちとレオタードを着て出演。金さんは「身体障碍者の障碍じたいを表現力に転じ未踏の美を創り出すことができる」と語っています。高校生の私は、障害のある身体がもつ説得力に圧倒され、サークルの文集に「文化を奪われてきた人びとのルネサンスだと思った」と拙い表現ながらつづっていました。おっきーを通じてさまざまな人と出会い、私自身、病の身体をさらして生きていくことを学んだのだと思います。

研究会で作成していた冊子の表紙

困りごとを皆で分担する場

今振り返ってみると、研究会の場こそが「ただ患っていてもよい」場だったのかもしれません。青木さんは、教師に配慮してほしいことを何度も説明したけれども伝わらず、「先方に受け取る気がなかったんじゃないか」と書いていました。私は今になって、おっきーら友人たちだけでなく、揚子さんや高校教師、地域の人らたくさんの大人たちが、困りごとを皆で分担するための場を作ってきたのだということに思い至ったのです。当時の私は病気かどうか分からず、痛みをうまくことばにできませんでしたが、研究会では安心して自分のペースで過ごすことができました。それぞれが目の前の相手を見てどう関わっていけばよいかを学んでいたのでしょう。印象的だったのは、高校教師も人生の悩みを吐露するなど、教壇に立っている時とは違う姿を見せていたこと。困っている人を中心とした場では、誰もが困りごとをさらしやすくなっていたのですね。それは研究会という限られた空間での特別な環境だったのでしょうか。

私自身は、おっきーが高校に在籍していたこと自体、特別だと感じたことはありません。社会人となり「できる人間にならなければ(組織では)生き残れない」「面倒をかける人間は(組織の)お荷物」といったことばを聞くにつれ、「迷惑をかけない」ことが前提で回っている社会の仕組みは「当たり前」ではないと感じるようになりました。

もちろん、仕事をしていく上では、成果を出していかなければならない現実はあります。なすすべもなく体調が悪化すると「働くどころか生きることがミッションインポッシブルだよ」と混乱状態に陥ることも。そんな時、母校に困りごとを「受け取る」場が確かにあったという事実と「おっきーたちと過ごして楽しかったなぁ」という実感をかみ締めることで、何とか自分を支えてきたように思います。

谷田朋美(たにだ・ともみ)……新聞記者。1981年生まれ。15歳の頃より、頭痛や倦怠感、めまい、呼吸困難感などの症状が24時間365日続いている。2005年、新聞社入社。主に難病や障害をテーマに記事を執筆してきた。ヨガ歴20年で、恐竜と漫画が大好き。立命館大学生存学研究所客員研究員。

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