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一万年生きた子ども――統合失調症の母をもって| 第12回 留年

小学校2年生のとき、母が統合失調症を発症。私は生き延びるために、「一万年の子ども」になった――。この第11回~15回では、母の症状が落ち着き、ナガノさんが「一万年生きた子ども」の後遺症と向き合ことになった中学生~高校生、成人後を描きます。

ナガノさんのこれまでについてはこちらで読むことができます。
『REDDY』
http://www.reddy.e.u-tokyo.ac.jp/act/essay_serial/nagano.html

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 「一万年の子ども」の力が決定的に失われたのは、高校二年生の留年でした。

 私は高校二年生の夏休み後から学校に行かなくなり、太宰治ばかりを読んでいました。学校に行く道すがら太宰を読んで、学校などくだらないと思って帰ったこともあります。学校はどの駅からも遠く、30分ほど歩かねばつかない川沿いにありました。男の子たちは卒業記念にボードで川を下って家に帰るという遊びをしていたり、両手放しで自転車に乗り、ハンドルにジャンプを置いて読みながら帰ったりしていました。

 私は不登校になろうと思ってなったわけではありません。

 まず、朝起きられなくなりました。高校2年生の1月から朝昼晩の抗うつ薬などを貰っていました。今にして思えば、薬の副作用で起きられなくなっていたのかもしれません。というのも、大人になってから、朝が得意になったのです。それは薬を最小限に抑えて、夜眠る前だけにしたからです。もちろん、青少年期というものはやたらと眠いものですが、薬の影響はあったのではないかと思います。

 毎日、学校に遅刻していきます。その頃からだんだん、朝起きれないし、どうせ遅刻するなら、もう学校は行かなくてもいいやと思うようになっていきました。いや、太宰治を読みながら川べりを歩いたり、学校なんて意味がないのだと思ったり、いわゆる思春期に差し掛かっていたのだと思います。ただ、その思春期、反抗期とも呼べる時代に、私は体調まで崩しています。

 過呼吸になり、食事ができなくなりました。母は高校生時代、ゼリー飲料しか飲めなくなった私をひどく心配し、とにかくご飯を食べさせようと必死でした。でも、私は生きることを拒否していたのです。生命力のない身体になるのが理想でした。がりがりで凹凸のない身体になりたかったのですが、それは痩せたかったというより、不健康な人形のようになりたかったという気持ちが正しいと思います。理想的な、健康的な身体を憎んでいました。骨と皮で骸骨のようになりたかったのです。

 私は明確に死にたいと思ったことは数回しかありませんが、その頃は生命力のようなものを嫌悪していました。健康とか清く正しくとか、そういうものも嫌悪していました。病気である自分に酔っていたのです。自己憐憫が激しかったのだと思います。自分をかわいそうだとは思いませんでしたが、複雑な生い立ちと、母が統合失調症であることで失われた私の子ども時代を思って、世を恨んでいました。

 精神病者を差別した連中すべてを憎んでいました。あのとき、誰も助けてくれなかったじゃないかと。被害者である私が今、病気にならなかったら、差別はなかったことにされてしまうのです。私は病気でなければいけませんでした。「一万年生きた子ども」である証として病んでいたのです。そして、私はようやく病という助けを得て、自分の命を生きる術を教えてもらったわけですが、それは健康的なものにはもちろんならず、死にたいと思うわけでもなく、ただ、身体が不調になっていくという表現の形をとりました。

 その頃、私はリストカットを繰り返していました。リストカットというのは、自殺未遂とは違い、カッターやカミソリなどで体のいろんな部分を傷つけることです。私の場合は両手の甲から腕にかけてでした。死ぬために切る部位である手首に傷をつけたことは、ほとんどありません。私はわざと目立つ部分につけていたのだと思います。リストカットをする人のなかには、二の腕や太ももなどの見えない部分を選んで傷つける場合などもあります。私のリストカットは「一万年の子ども」の後遺症を生きているという表現手段の一つでした。自分がどれほど傷つけられたのかを、自らの身体を切ることで可視化したのです。

 たくさん傷つけた後は必ず大原クリニックに行きました。そして、傷を大原先生に見せるのです。それを誰かに見てもらって、気の毒がってもらわないとだめでした。リストカッターを「どうせ死ぬ気もないくせに、かまって病だ」と揶揄する人がいます。その通りだと思います。でも、それの何が悪いのでしょう。かまってもらわないと、いてもたってもいられない苦しい気持ちを抱えているのです。そんな私がケアを求めて、本当に何が悪いのでしょうか? 私にとってリストカットは表現でした。言葉にできない自分の苦しみの表現です。「自分の身体を傷つけてはいけない」と言う人もいるでしょう。でも、そうしたら私の苦しみはどう表現すればいいのでしょうか?

 私はリストカットを通じて人とつながっていました。私が一番安心するのは、リストカットをした後に誰かに手当をしてもらった、包帯のまかれた手を見ることでした。言語化できない苦しみが、私から滲み出ていました。

 リストカットの傷は20年余りたった今でも残っています。私は今、それを時計で隠しています。何か聞かれたら、「バーベキューのときにやけどしちゃってさ。だから、こんなふうに平行線の跡がついているの」という言い訳も用意しています。でも、20年たっても残るこの傷を、私は愛おしく感じます。

私は今、こんな風にエッセイを書いたりして、自分の苦しかった胸の内を表現することができるようになりました。だから、リストカットはもう必要ないのです。リストカットをする理由は千差万別あり、私がこうだからといって、他の人もそうだとは限りません。そこに注意が必要です。他の人の話を聞くと「切ると血が出て生きている気がした」とか「切ると気分がすっきりする」などがあります。

 私はそんなふうにリストカットをしたり、拒食をしたり、過呼吸になったり、朝起きれなくなったりして、とうとう学校に行けなくなり、そして、留年したのでした。

 担任の先生から留年が決まったと言われて、学校に戻る気があるかどうかを聞かれました。私の通っていた高校では、その年に留年したのが私ただ一人でした。進学校ではありませんでしたが、真面目で勉強のできる子どもたちが通っていた校風のため、そうなったのです。

私は父に「フリースクールに行ってみたい」と言いました。

もう、学校には戻れないと思ったのです。毎日、学校に通うことも現実的ではありません。何しろ、朝起きられないのです。父にしてはめずらしく素早く対応してくれ、私は東京都心にあるフリースクールに父と見学に行くことになりました。フリースクールは雑居ビルの2、3階を借りて運営されていました。

 生徒たちはもちろん制服は着ていません。しかも、授業のようなものも行われていませんでした。教室には、5~6人がパラパラといるといった感じです。授業は、子ども一人ひとりのペースに合わせて、先生と一対一で行う方式で進められるとのことでした。その様子を見学させてもらいましたが、先生と生徒が友だちのように接する空気になじめませんでした。

 先生と生徒というのは、明らかな権力関係の差があります。友だちではありません。私には今目の前で展開されている、「先生と友だち風に接する」という関係性が、欺瞞にしか感じられなかったのでした。当時はそんふうに言語化できませんでしたが、気持ちが悪いと感じました。私は同じようにはできないと思ったのです。生徒が明らかに先生に甘えたようにしているのも不満でした。そして、先生はそれを許しているのです。それは、「もし、この甘えを許さなければまた不登校になるぞ」という脅しにも感じ取れました。フリースクールの空気は澱んでいました。

 帰り道、電車の中で私は父に「フリースクールじゃなくて、学校に行く。留年する」と伝えました。父は特に驚いた様子もなく、「わかった」とだけ言いました。もともと淡々としている人なのです。娘が不登校になっても、「学校に行きなさい」などとは一切言いませんでした。というか、あまり子どもたちに興味がないのではないかと私は内心思っていました。数学のことだけが、父の関心の的なのです。

 そうして、私は学校でただ一人の留年生をやることになったのです。
 二回目の二年生の始業式の日、かつての担任の先生が私を密かに呼び寄せました。
「ナガノさん、これから、体育館にみんなで並ぶけれども、気まずかったら、出席しなくてもいいからね。新二年生の列に並びたくなかったら、それでいいんだよ」と言いました。
 腫れ物に触るような扱いだなぁと私は思いました。けれども、それを口には出しませんでした。
「大丈夫です。新二年生の自分のクラスのところに並びます」
「そ、そう? 嫌だったらいつでも言ってくださいね」
 私は校内ただ一人の留年生として、それからあと2年高校に通うことになりました。そして、私はそのとき、校内でただ一人の金髪でした。私の通っていた高校は校則を破る人がほとんどいないため、校則があってもなきものとされていたのです。先生から金髪について注意はされませんでした。留年するというのは、思った以上に周りに気を使わせるものなのだなぁとぼんやり思いました。

 体育館に行って、始業式の列に並んだら、私の目の前の女の子が赤い髪でした。その子は、校内唯一の赤髪です。とてもシンパシーを感じていました。そして、その子が私の留年時代の初めての友だちとなりました。その子が振り返っても、私が高校一年生で好きになったようこちゃんのときのように、恋をすることはありませんでした。ニコイチの関係にもなりませんでしたし、恋人になりたいとも思いませんでした。私が初めて、まともにつくった「ともだち」と呼べるかもしれません。

 私の留年生活は順調に始まりました。担任の先生は50代の男性で、私と取り立てて仲良くしようとしてくるタイプではなかったのが助かりました。
 私はこの留年生活のなかで、遅刻しないで学校に行ったことは、ただの一度もありませんでした。それでも先生には何も言われませんでした。赤髪の子も同じように遅刻の常習者でした。二人してその学期の初めに、はたして何日休んだら授業の単位を貰えなくなるのかを、手分けして先生に訪ねてまわりました。そして、手帳に書き込み、遅刻なら10回までOK、15分以上の遅刻なら欠席に換算、欠席は5回までなどの情報収集に余念がありませんでした。二人とも常に赤点を取っていました。それでも、ぎりぎりでもいいから、高校を卒業するんだという同盟を組んでいたと思います。そうして、私は留年を乗り越え無事卒業したのです。

 20年あまりたった今でも、私は高校の単位が足りなくて卒業できないという夢を見ます。あの頃はぎりぎりでした。やはり常に朝は眠く、体は鉛のように重く、「一万年の子ども」の後遺症で、呪いの玉のようになりながら生きていたのです。それでも、生きていたのです。私は、無事生き延びることができました。「一万年の子ども」の後遺症と共に生きる命ですが、それでも、私は今、幸せだと思います。

ナガノハル……1979年、神奈川県生まれ。双極性障害II型という障害をかかえながら、日々の苦労をまんがにすることをライフワークとしている。著書に『不安さんとわたし《当事者研究的コミックエッセイ・総ルビつき》』(山吹書店、2019)がある。

『不安さんとわたし《当事者研究的コミックエッセイ・総ルビつき》』

不安さんとわたし



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