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一万年生きた子ども――統合失調症の母をもって| 第11回 人生すべて後遺症

小学校2年生のとき、母が統合失調症を発症。私は生き延びるために、「一万年の子ども」になった――。第11回~15回では、母の症状が落ち着き、ナガノさんが「一万年生きた子ども」の後遺症と向き合ことになった中学生~高校生、成人後を描きます。

ナガノさんのこれまでについてはこちらで読むことができます。
『REDDY』
http://www.reddy.e.u-tokyo.ac.jp/act/essay_serial/nagano.html

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私が今やっていることは、過去のかけらを拾い集めるような作業です。そこかしこに点々と落ちているものを拾って、線につなげていくのです。記憶がものすごくあいまいになっているところもたくさんあります。特に私が中学・高校だった頃の母の記憶があまりありません。

高校時代はとくにつらかったという思いがあります。中学生の頃はそれなりに勉強もこなし、学校では適度な優等生として通っていました。それが、高校2年生の留年で一気に瓦解するのです。

私の人生は、ほとんどすべてが「一万年の子ども」であったころの後遺症です。常に母の統合失調症と世間との調整役をやってきました。すべては自分のコントロール次第だと思ってきたのです。けれども、それは大いなる幻想でした。私がコントロールできることなど何ひとつありませんでした。コントロールできると思うことは、人を対等な人間と見ない傲慢なことだったのです。でも、子どもの頃の私はそれを傲慢と知りませんでした。いや、傲慢と知っていたら生き延びることはできなかったでしょう。神様は私の傲慢を許したのです。ほんの小さな子ども、8歳の子どもが誰よりも大人であるという意識を手に入れるとは、そういうことなのです。

私は母を差別する大人たち、子どもたちを憐れんでいました。見下げていたのです。差別するなんて、なんてひどい人間なんだと下に見ていました。それもまた傲慢です。私は自分は神様から選ばれた一万年生きた子どもなのだという自負がありました。誰よりも大人で、誰よりも慈悲深く、知恵があるのです。でもそれは全て錯覚でした。8歳の私が過酷な環境を生き抜くために、神様が宿ってくれたから成せた技でした。私は8歳から17歳までの10年間、神様に負ぶわれて生きてきたのだと思います。

そして、17歳で初めて地面に降りました。

そしたら私は自ら立つ力を失っていたのです。当然といえば当然です。何しろずっと負ぶわれていたのですから。17歳からの私の人生は、自らの足で立つ力を取り戻す闘いです。それは今まで同じように歩けるようになるということではありません。一度、立つ力を失ってしまった私は松葉づえがないと歩けなくなってしまったのです。そして生涯そうなのです。

平成8年の1月、17歳のときに私は大原先生の診察を初めて受けています。
高校1年生の夏休みまでは普通に生活できていました。それが2学期になると学校に行けるような体調ではなくなったのです。そして、高校2年生を留年しました。

初めて受診に行ったときは、朝になると過呼吸になるという症状でした。不調はそれからも続き、疲れ、吐き気、下痢、朝起きられない、だるい、汗が出る、震える、腹痛、頭痛、不眠、とあらゆる症状が出てきました。

 私は今回、「一万年生きた子ども」のその後を書くにあたり、大原先生に当時の様子がどうだったか訪ねに行きました。私は「一万年生きた子ども」のその先の様子を、知りたくなったのです。

大原先生は72歳になっていました。心臓の手術をする大病をしたそうで、クリニックを一度は閉める決心もしたそうです。それでも、午前中だけの診療に限定して続けることにしたとのことでした。午後までの診療にすると、書類書きなどなんだかんだで、仕事が終わるのが0時になってしまうことも珍しくないということです。

大原先生のところを、受診のためではなく当時の様子を知るために訪ねるのは、最初は「いいのかな?」と思いましたが、クリニックに電話してみると「カルテは残ってますよ、保険証を持ってきてくださいね」と看護師さんは優しく対応してくれました。

私は電車に乗って実家近くの大原クリニックを訪ねます。
一体、母にどんなひどいことを言った記録が出てくるのだろう? 私はどきどきしていました。母にひどいことをしたのではないか? その気持ちでいっぱいだったのです。私と母はよく喧嘩をしていたし、母もよく怒鳴っていました。そういう家庭で育ったのです。

「先生、私は当時、母のことをなんと言ってましたか? 私は高校生の頃どうしてましたか?」
大原先生は最後に会ったときと変わらない、朗らかな笑顔で答えます。

「ハルさんは、賢くて、センスが良くて、かわいい顔をしてましたよ。お母さんの病気を気にして、お姉さんとの間に挟まれていました。お父さんは蚊帳の外で、長野家は、お母さん、お姉さん、ハルさんと三つ巴になっていました。ハルさんは他のお母さんと比較して、否定と葛藤があったようですね。否定と肯定を交互にしていました。統合失調症のお母さんの元に育ったけれど、繊細な芸術的才能も見せているから、プラスマイナスゼロですよ」

私は母にひどいことは言ってなかったらしいのです。
そのことを聞いて、信じられないような、では母にひどいことを言ったという私の記憶はどこからきているのかと不思議な気持ちになりました。

私は確かに母に反抗していた。その記憶だけが漠然と、まことしやかに立ち上がってきます。思い切って母に聞いてみました。

「高校時代のわたしってどうだった?」
「楽しそうだったよ、髪をいろんな色に染めていた」
「留年したじゃない?」
「ああ、そんなこともあったね、忘れていた。朝起こすのが大変だったよ」
母の記憶の中の私は母に反抗することもなく、元気に快活に生きていたようなのです。記憶とはそんなふうにすり替わっていってしまうものなのでしょうか?

私のぼやけた具体的ではない記憶では、母に反抗していたはずなのに。
私は母に酷いことは言ってなかったらしい。
客観的事実を見れば、言われたとされている母も言われてないといい、カルテにも書いてありません。私は言ってなかったのです。

実は、私は14歳の頃から23、4歳まで日記を書いていました。しかし、記憶を確かめるのにその日記はまるで参考になりませんでした。今日、何が起きたとか、何を食べたとかは、まるで書いていないのです。何やら呪文のような哲学的命題について、意味不明に論じているものばかりでした。

私が「一万年の子ども」をやめたとき、襲いかかってきたのは身体の不調でした。無理が祟った私の心は言語化できずに、体の不調という表現を使ったのです。私は高校時代、母の統合失調症について言語化し、表現する手段を何ひとつ持ちませんでした。不登校の子どもが「お腹が痛いから学校に行きたくない」と言うように、私もまたそういう表現手段で、「一万年の子ども」の後を生きていたのでした。

確かに高校で留年したときはとにかく調子が悪く、寝ていることしかできませんでした。こんなんじゃいけないと、突然、ビジネスマンが持つようなトランクを買って、必要なものを詰め、日がな一日、川べりを行ったり来たりしていたこともあります。それは、自分では家出のつもりでしたが、夜にはちゃんと家に帰っていたので、日中家にいないだけの話でした。

私が一万年の子どもをやめた後、病状がある程度落ち着いた母は極度の心配性になっていました。私がちょっとでも家に帰らないと、すぐに電話をかけてくるのです。その頻度が尋常ではない。連続で8回くらいかけてくるのです。思春期の娘を持つ親はみんなそうなのかもれませんが、私は辟易し、母親からの電話には一切出なくなっていました。

心配性になった母をうっとおしく思っていたのかもしれません。でも母は、私が派手な恰好で出歩くと、「かっこいい!」と言って一番に喜んでくれるような人でした。母にとっては、金髪もかっこいい、ミニスカートもかっこいい、厚底ブーツもかっこいいのです。私が高校時代を過ごした1990年代は、ミニスカートに厚底ブーツが流行っていました。私はお金もないのに、友だちと夜遊びに出かけて、朝帰りとなってしまい、タクシー代もないので、厚底ブーツで駅まで40分も歩いたりしていました。

体調不良で寝たきりになるかと思いきや、突然夜遊びに行く。当時の私はめちゃくちゃでした。何かしなくてはいけないと焦っていたのです。何もしないで落ち着いて休んでいることができませんでした。そうすると罪悪感が襲ってくるのです。だから、夕方から起きだしてあちこちに出かけたりしていました。

「一万年の子ども」であった頃の「後遺症」と書きましたが、実は私は今も「一万年の子ども」です。苛烈に生きた子ども時代から倒れてしまった高校時代、そして、格闘しながらも穏やかに生きる現在。私は、生涯「一万年の子ども」です。

「一万年の子ども」の後遺症、または、今も「一万年の子ども」であるとはどういうことでしょうか? それは例えば、私は人の機嫌が気になってしょうがないということです。母の精神病の妄想と現実世界との調整役を勝手に担っていた私は、母の機嫌を完璧に理解できると思っていました。誰よりも母の気持ちがわかる、妄想のことだってわかるという自負がありました。そのことが、今になって、猛威を振るっています。

私は今現在、パートタイム労働者として週3日、1日5時間の事務仕事をしています。その上司の機嫌が気になってしかたがないのです。「はい」の言い方ひとつで、「私は嫌われたかもしれない」とか「さっきのミスで不機嫌に違いない」とか思うのです。それは、「一万年の子ども」の頃に培われた「母の機嫌を窺う」という能力の暴走です。私はこれをやめることができません。私は今は自助グループに通っていますが、そこで、「それは妄想だよ」と指摘されるまで、それが正しいのだと思い込んでいました。私は妄想には無力です。無力だと認め、自助グループの仲間に「また、上司の機嫌が気になってしかたなくてさ」と話すことで、現実を自覚します。

「一万年生きた子ども」であるとは、現実から乖離した状態を生きるということでした。だって、8歳の子どもが、統合失調症の妄想に巻き込まれている母親に、何ができたというのでしょう?何もできません。大人だってなにもできないのです。それなのに、私は、「自分ならなんとかできる。がんばればこのピンチを回避できる」と、呪いのようなパワーアップスペルを自らに唱えて、その場を乗り切ったと思っていたのです。現実は、母が妄想のままに行動するのにただついて行ったりしていただけでした。現実を正しく見る能力を失っていたのです。正確には生き延びるために失わされていたということでしょうか。

だから、私は今も現実を見る力が弱いのです。すぐに「万が一が起こったらどうしよう」という考えばかりに囚われてしまいます。それは、子どもの頃には、母親が警察で保護される、夜中に突然飛び出していなくなってしまうというような形で、現実化していました。でも、今はそんなことは起きないのです。なのに、万が一に備えるために突出した能力は消えてくれません。

きっと、私は一生万が一を心配して生きるのでしょう。でも、そのたびに、「起きたら考えればいいよ」と自分に声をかけるのでしょう。

ナガノハル……1979年、神奈川県生まれ。双極性障害II型という障害をかかえながら、日々の苦労をまんがにすることをライフワークとしている。著書に『不安さんとわたし《当事者研究的コミックエッセイ・総ルビつき》』(山吹書店、2019)がある。

『不安さんとわたし《当事者研究的コミックエッセイ・総ルビつき》』

不安さんとわたし


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