中世の本質(28)農民の成り立ち

 中世人の<成り立ち>についてお話しを続けます。領主と武士の成り立ちは鎌倉時代の黎明期でした。<成り立ち>は頼朝と関東の武士たちが双務契約を開発し、履行したことから始まりました。そしてこの契約はやがて全国の武士の間に広まり、領主と武士を成り立たせ、そして武家社会を成立させる基盤となりました。
 一方、農民もまた成り立ちます。それは16世紀、戦国時代のことです。当時、戦国大名は近隣の村々を支配し、農民たちは戦国大名に服従していました。それは上下関係であり、古代支配と変わりありません。
 しかし中世の村は古代の村とは異なっていました。中世の農民は奴隷のように支配者に一方的に従っていたわけではなかった。というのは農民が戦国大名と双務契約を交わし、契約上、大名と互角の立場を獲得していたからです。
 農民は戦国大名によって支配されていましたが、同時に、戦国大名と平等関係をも築いていました。二者の平等です。戦国の過酷な時代が両者を緊密に結び付けていたのです。この双務契約は農民の(不完全ではありますが)自立をもたらし、そして農民の成り立ちを約束したのです。それは領主や武士の成り立ちに次ぐ中世人の成り立ちでした。
 戦国時代、兵農分離が成立します。信長などの戦国大名が自国戦力の強化を目指し、武士を城下に集めたのです。武士は村から離れて、城下に移ります、その結果、村は純粋に農民だけの集団と化し、一人の武士もいなくなりました。それは村を裸同然にしてしまいました、戦国時代においては危険極まる状態です。
 この時、戦国大名と村は手を打ちました。戦国大名は村を保護します、村を武士の侵入や近隣の大名の侵略から守り、村の安全を確保し、彼らの農耕を保障します。それは戦国の世ならではの荒々しい契約義務です。その結果、大名の保護の下、農民は農耕を持続的に営むことができ、秋には豊作を期待できます。そして村は財産を蓄積する。
 一方、村も戦国大名に対し、契約義務を負います。それは大名に毎年、年貢を納入することです。年貢は大名にとって必要不可欠なものです、それは大名領国の財政基盤を形成し、彼の領国経営を実質的に支えるものだからです。毎年、年貢が正常に納められるかどうかということは大名にとって死活的なことでした。
 大名も村も生死を賭けて真剣に契約を結んだのです。彼らの双務契約は双方にとって切実なものであり、戦国の世における安全保障でした。特に大名にとって村は大切でした。というのは村が大名に年貢ばかりではなく、兵士をも提供する大事な存在であったからです。村は財政においても戦力においても大名領国を支えていたのです。
 大名は支配者でありますが、村の立場を尊重し、村の内部に立ち入りません。村内の事柄、例えば農耕の進め方や年貢納入や水利の調整、裁判や村祭りなどは農民が自主的に行います。大名は村が彼の領国に悪影響を及ぼさない限り、そして年貢の未納の無い限り、農民たちの自主的な村運営に介入しません。いわば村は半分、自立したのです。村内部において農民は自由を得たのですから。勿論、村の自立というものは日本史上、初めてのことでした。それは農民権の誕生です

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