武士論を検証する(6):中世王の王権

 双務契約は契約当事者双方を対等な立場に置きます。それは王であっても逆らうことのできない原則です。従って双務契約の出現は王権というものを大きく変えることになります、つまり古代王の王権と中世王の王権とは全く違うものとなったのです。
 頼朝は関東国の王です。彼は在地領主と双務契約を結んでいます。彼は彼らの領地を安堵する権威です。そのため当然のことですが、頼朝は彼らの領地を認め、彼らの領主権を尊重し、彼らの領地経営に介入しません。それは素晴らしいことであり、頼朝は彼らの成り立ちを保障しているのです。しかし言い換えればそれは頼朝の王権が彼らによって制約されているともいえます。
 一方、古代王の王権は絶対的なものです。古代王は唯一者であり、彼と対等な者は一人もいない。従って彼を制約する者は誰もいません。彼は国民すべてに対し、問答無用で介入し、あるいは侵入することができます。それは恐ろしい王権です。古代国にあって成り立つ者は古代王一人です。
 さて中世に現れた領主権というものは在地領主が彼の領民を支配するための諸権利です。それは行政権、軍事権、司法権、徴税権などです。鎌倉時代の領主権は素朴なものでしたが、それは時を経るごとに整い、強いものとなり、戦国時代においてほぼ完成したものとなりました。
 例えば千葉氏は下総の地で彼の領主権を行使する。彼は独自の税や税率を決め、彼の農民に課す、そして農民はそれに従い千葉氏に納税します。千葉氏は又、彼の武士に敵と戦うよう命じます、そして武士たちはそれに従い、戦います。すなわち千葉氏の農民や武士は千葉氏の指揮に従います、しかし注目すべきことですが、彼らは頼朝に従わないのです。
 それは治外法権です。関東国は20以上の治外法権の領地から成立していました。下総の地は千葉氏のもの、そして三浦氏の領民は三浦氏に属する。つまり(鎌倉の地を治める)頼朝を含め、20数名の在地領主が関東国の国土、国民、国家権力を分け合っていたのです。関東国はパッチワークの国でした。
 頼朝は中世王でありながら関東国のすべてを独占してはいないのです。関東国の国土、国民、そして国家権力は20以上に分割されている。すなわち中世王の王権は絶対的なものではなく、限定的に機能する。それが分権制という国家体制下の王権です。分権体制は頼朝、義満、秀吉、家康と700年間、中世の王たちが採用し続けた国家統治の基本体制です。それは古代王朝の中央集権体制と真逆の体制です。
 さて中世王の王権は絶対的なものとは言えません。在地領主たちの領主権は堅く、強く、そして頼朝の王権をはねつけます。しかしそれでも頼朝は関東国の盟主です。それでは盟主の力とは何なのでしょう。中世王の王権とはどのようなものでしょうか。
 頼朝は命令者です。在地領主たちに命じます、平家を倒せ、義経を捕えよ、と。領主たちは頼朝の命令に従い、平家を滅ぼし、そして義経を自害に追い込みます。それは頼朝の行使する王権です。頼朝は領主たちの領地を超えて展開する事柄や関東国全体に及ぶ事柄については領主たちを従え、指揮し、命令する、それが中世王の王権です。
 中世王は弱くて、そして強いのです。従って中世王の王権も又、二重性です。中世王は領主に対し二通りの接し方をしています。中世王は領主権を認め、彼らの領国経営に介入しません、それは対等な関係です。しかし一方、中世王は領主たちの領地(藩)を超え全国、全国民へ及ぶ事柄、すなわち日本国の支配においては彼らを顎で使います。例えば平家を倒せ、蒙古の襲来を阻止せよ、朝鮮に出兵せよ、平和令に従え、キリスト教を弾圧せよ、あるいは外国船を打ち払えなどです。
 中世王の王権の中味はこのように二層の構造です。二重性を持つ王権とはいかにも中世らしい姿です。二重性は中世の掟ともいうべきもので、それは双務契約、主従関係、中世王の王権を支配しているのです。
―――(7)へ続きます

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?