武士論を検証する(2):新しい主従関係

 主従関係とは一般に主人と従者とが個人的に結ぶ関係であり、上位の者が下位の者を支配する上下関係です。そして主従関係は古代にも中世にも存在しました。例えば義家や清盛、そして地方に下った下級貴族が従者と結んだ関係は古代の主従関係です。一方、頼朝が在地従者と結んだ主従関係は中世の主従関係でした。それは注目すべきことです、この二つは全く別々のものなのです。
 先ず、古代の人的関係を見てみましょう。日本の古代は奈良時代や平安時代です。古代国では古代王が支配者です。古代王(または古代王の義父である摂政、あるいは実父である院)が国土、国民、国家権力をすべて掌握していた、それは絶対君主の時代です。
 古代王が白を黒と言えば国民は皆、白を黒と言います。黒と言わないものは古代王の敵とみなされ、牢屋に入れられます。絶対服従こそ古代の安全保障です。国民には言論の自由がありません。勿論、主権も無い。それが専制主義です。そこには命令と服従の、残酷な上下関係だけがある。
 義家や清盛などの古代の軍司令官は古代王に対してもそして彼らの従者に対しても常に<命令―服従>の関係で接します。つまり上下関係は命令と服従とが縦の線で貫徹された、単線の命令系統です。彼らは古代王に仕え、古代王の命令に従い、一方従者に対しては命令を下す。それはあくまでも上から下まで命令と服従から成る、問答無用の人的関係です。
 一方、中世の主従関係とは古代の主従関係が大きく変化したものです。新しい主従関係は12世紀、関東の地に出現しました。それは上下関係だけではなく、平等という関係が新しく組みこまれたものです。それは画期的な開発でした。武士たちは未開の土地ばかりではなく、新しい人的関係をも開発していたのです。
 この平等という人的関係の芽生えは日本史上初めてのことであり、それ故、歴史的なことです。さらに上下と平等という、相反する二つのものが重なって存在するという二層の構造も又、特別のものでした。
 その結果、主従関係は二種類となります。古代の主従関係は古代に横たわり、一方中世の主従関係は中世で働きます。前者は上下関係のみから成り、一方後者は上下関係と平等関係との二層から成ります。
 この新しい主従関係は義家や清盛や下級貴族などの古代国の住人たちが思いもしなかったものです。彼らは上下関係の中でのみ彼らの従者を支配しています。平等関係には無縁でした。
 頼朝と関東の領主たちは古代の専制支配に風穴を開けたのです。すなわち彼ら武士は上下関係だけの古代社会に平等関係を投げ込んだのです。その結果、誕生したものが中世の主従関係でした。上下と平等の相反する関係が同居する、不思議な二層関係です。いいかえますとそれは縦方向の専制主義に横方向の平等主義が編みこまれた、高度の人的関係です。そして頼朝と主従関係を結んだ武士は特に御家人と呼ばれました。
 この主従関係が出現した時こそ、武士の誕生時であり、そして中世という歴史の黎明期です。すなわち本質論からすれば武士の起源は下級貴族でもなく、有力農民でもない、しかし新しい主従関係の出現です。そしてこの主従関係は鎌倉時代から江戸末期までを貫いて存続し、武家社会を根底から支えるものでした。筆者はこの700年間を中世と呼び、封建主義の時代と考えます。
 それでは中世の主従関係とはどのようなものなのでしょう。古代の主従関係はどのようにして中世の主従関係へと変貌していったのでしょう。そこにはどんなきっかけがあったのか。
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(本論は別稿<中世化革命>からの引用です。アマゾンから出版中です)

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