武士論を検証する(4): 平等主義

 中世は支配者であっても<他者を認める>世界です。中世王である頼朝も武士に対し彼らの成り立ちを保障するという重い義務を持つ。そうであるからこそ武士たちは頼朝のため(そして自分のために)命がけの戦に臨んだのです。
 それは日本史上、初めて支配者(上位者)と被治者(下位者)とが(契約上)対等となったことです。平等主義の成立です。縦糸(上下関係)と横糸(平等関係)が織られて一枚の布が生まれるように上下関係と平等関係が重なって、高度で強力な人的関係、すなわち中世の<主従関係>が誕生したのです。
 双務契約の出現が主従関係というものを大きく変えました。古代の主従関係は止揚されたのです。上下と同時に、契約上、平等な関係が共存するというこの不思議な二重性は中世の武士を象徴的に物語る。武士は最早、主人に絶対服従する存在ではなくなった。中世武士は主君の奴隷ではありません。
 この<二重性>は主従関係だけではなく、中世の世ではいくつも見受けられるものです。この複雑さは中世が古代と現代との中間に位置するという歴史事実から必然的に導かれる。つまり中世の姿には古代要素と現代要素とが巧妙に一体化しているのです。
 <中世の主従主義>はその典型です。それは<古代の上下主義>と<現代の平等主義>の二つが一体化したものです。二層です。二重性です。従って日本史上の人的関係、あるいは支配体制は<上下―主従(上下と平等)―平等> という推移として現れます。それは日本国の支配体制が三つの形態から成っていたことをわかりやすく示しています。
 中世の主従関係から上下関係を取り除き、平等関係一つを残すこと、それが明治維新でした。すなわち<万民の平等>の確立です。二者の平等が万民の平等へと転じたのです。それは中世の否定であり、そして日本の現代化でした。
 ところで留意すべきことはこの中世の平等主義は絶対的に存在するものではなく、あくまでも条件付きで存在したということです。平等主義は天から降ってくるものではない。すなわち平等主義は双方の努力次第である、ということです。契約当事者双方が契約をしっかり順守する上で初めて平等主義は成立する。
 <保護>あっての<忠誠>です。そして<忠誠>あっての<保護>です。武士の忠節は条件付きです。武士の主君への忠節はあくまでも主君の武士への保護が十分であることが前提であるということです。主君が正当に、そして公平に武士(の戦功や普段の働き)を認め、それに見合った報酬を与えることが大前提です。その上に平等主義、そして双務契約、主従関係が成立します。
 武士は古代の兵士とは違い、自立し、自主性を持っている。ですからもしも主君の保護が十分なものでないのなら、あるいは不当なものであるのなら武士は主君を主君として認めず、彼から離反する、すなわち両者の双務契約も主従関係も消滅します。武士の忠節は盲目的な、絶対の忠節ではない、ということです。
 同様なことは主君にも当てはまる。武士が戦場において勇敢に敵と戦い、手柄を立てるなら、主君は武士に対し、相応の保護を与えます。例えば新しい土地を与える。しかし武士が臆病であり、敵前逃亡を企てるなら主君は武士を許さず、彼に与えていた土地登記書を取り上げる。主従関係の破綻です。
 主従関係とはこのように厳しいものです。双務契約、そして主従関係は<他者を認める>ことから始まります。そしてその認定が正しいものであったなら主従関係は継続する、しかしそれが間違っていたのなら彼らの主従関係は消滅します。両者の間には常に緊張関係が存在する。ですから両者にとって契約を履行するための<誠実さと真剣さ>は絶対です。不誠実や責任放棄はあり得ません。誠実や責任感は中世に特に求められた精神であり、それ故、双務契約は中世人を厳しく鍛えたのです。
 言わば契約当事者は初めから互いの首根っこをつかんでいる、そうしながら緊密に協力し合うのです。それは裏切りやサボタージュを決して許さないことを目的とする厳しい契約です。身の安全と財産の保全を望むのであれば両者とも等しく契約義務を誠実にそして真剣に果たさなければいけないのです。このような厳しさは常に死と背中合わせの武士にとって必要なことでした。 
 
付記: 戦功と恩賞
 
 古代武士は双務契約を結んでいません。というよりも古代には双務契約というものが存在しませんでした。そこには上下の関係だけしかありません。古代王は絶対者であり、他者を一切認めませんから平等という人的関係が成立しないのです。
 源義家は王朝の軍事貴族です。彼は古代王の命令に従い、武人として地方の反乱を見事に鎮めます。その時、王朝は彼の戦功を認め、彼を称賛し、彼に恩賞を与えます、それは多くの場合、昇叙です。今までよりも上位の官職が授与されます。
 義家と古代王(そして王朝)は双務契約を結んでいませんから、本領安堵というものも新恩給付もありません。そして恩賞はあくまでも一方的なものであり、恣意的なものです。義家はたとえ不満であってもそれを受けます。王朝に服属する限り、彼は王朝の決定に従わざるを得ないからです。
 義家は多くの従者を引き連れて敵と戦いました。彼の従者の中にも勇敢で、敵将を討ち取った者もいたことでしょう。義家はそんな従者を称賛する、しかし彼はその従者に恩賞を与えることはしません。恩賞を与える仕事は王朝の仕事です。義家の仕事ではない。義家の仕事は従者の果たした戦功と彼の希望する恩賞を王朝に伝えることです。言わばそれは斡旋です。彼は仲介者でしかありません。
 ですから義家と従者の主従関係は希薄なものです。両者の間には契約という互いを縛るものが無い。従って彼らの関係は緩いもの、いい加減なものとなりがちです。そこには命令と服従という原初的な人的関係しかありません。
 一方、中世の主従関係は自立者同士の協力体制です。頼朝は仲介者ではありません、彼は自ら従者の働きを評価し直接、恩賞を与えます。従って両者の関係は当然、緊密なもの、緊張感に満ちたものとなり、相互信頼が醸成される。
 中世の主従関係は古代の主従関係に大きく優越しているのです。それは命令と服従の関係だけではなく、保護と戦役という双務契約の加わった、重みのある、洗練された人的関係です。従って武士たちは相互信頼の中で、雑念なく、後顧の憂いもなく戦闘に専念できます。
 尚、義家と同じ軍事貴族であった清盛について一言、述べておきます。一時期、平家の勢力は王家を凌ぐほどでした。清盛は日本国の約半分を支配下に置き、新しい古代王を目指していた。恩賞の授与は本来、古代王の仕事ですが、清盛は自らそれを彼の従者に対し行っていました。それはまさに古代王の振る舞いです。
 清盛は戦功のあった従者に対し、昇叙を認め、官職や土地を与え、あるいは物品を配りました。但し、清盛の恩賞授与は彼の義務ではありません。それはあくまでも一方的、恣意的なものです。彼は双務契約とは無縁であり、従者の<成り立ち>に関与しません。古代国において<成り立つ>者は古代王一人であるように、清盛一人が成り立つのです。それは清盛にとって当たり前のことでした。清盛は進取の気性に富んだ人物であったことでしょう、しかしあくまでも専制主義に絡めとられた古代武士であったのです。


―――(5)へ続きます。
 (本論は別稿<中世化革命>からの引用です。アマゾンから出版中です)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?