武士論を検証する (7):分権制

 分権制は鎌倉時代に出現し、江戸末期まで存続した中世日本の国家体制です、時代が変わり、中世王が入れ替わるごとに国土、国民、国家権力は新たに分割されました。頼朝は関東国を20数か所の土地に分割し、それぞれを在地領主たちに与えました。義満は日本国土を30数か所の土地に分割し、それぞれを守護大名たちに与えました。そして徳川は国土を200以上の土地に分割し、それぞれを大名たちに与えました。時代を経るごとに国土は細分化されていったのです。
 頼朝が行った本領安堵は領主、領地、領民、そして領主権という新しい言葉を作りました。千葉氏の所有する下総の地は<領地>と呼ばれる、千葉氏の領地の住人は<領民>と呼ばれる、そして千葉氏の行使する権力は<領主権>と呼ばれます。そして千葉氏は<在地領主>あるいは<封建領主>と呼ばれます。そして在地領主という存在は時代とともにその名称を変えて、やがて地頭、守護大名、国人、戦国大名、大名などと呼ばれました。
 それ等は中世の言葉です、しかし古代にはありません。古代王は<他者>を一切認めませんから国土は分割されず、<王土>であり、国民は分割されず、<王民>であり、そして国家権力は分割されず<絶対王権>でした。従って領主、領地、領民、領主権という言葉は中世固有の言葉であり、そしてその有無は古代と中世とを分かつ基本要素といえます。
 国土の分割、分与は中世王にしかできない核心の仕事でした。そして大名たちは分割、分与を中世王の仕事と認め、中世王に一任し、そして土地の安堵を真剣に待ち受ける。実際、土地の分割、分与は大名には決してできないことです。もしも一人の大名が分割、分与を行ったとしても誰もそれを認めません、相手にしない。大名は大名です、しかし中世王ではありません。
 中世王はそんな大権を与えられていますから、彼の分割、分与は公平で、正当でなくてはいけません。それは中世王の務めです。信長のように専制主義を振りかざしてはいけない。大名たちは中世王の行う分割、分与をしっかり見張っています。大名は中世王の裁定に唯々諾々として服従する奴隷ではないからです。ここにも両者の対等性が見て取れます。
 国土の分割は分権制をもたらし、そして当然のことながらその結果、古代日本の国家体制である<中央集権制>は粉砕されます。地方支配は全面的に様変わりする。それは室町時代のことでした。それまで地方を支配していた地方長官は地頭や守護によって追放され、代わりに在地領主と化した守護大名が取り仕切る。
 地方長官は古代王朝から派遣された役人であり、あくまでも古代王の代理人です。彼の揮う権力は彼の所有する権力ではない、仮の、一時的なものです。ですから古代王の一存で彼は長官職に就き、そして古代王の一存で長官職を解かれます。そして彼の地方支配の方針も古代王の一存で瞬時に変わってしまう。つまり彼は成り立っていないのです。
 一方、守護大名の持つ領主権は彼の所有する自前の権力です。大名は中世王の代理人ではない、しかし自立しています。すでに述べましたように中世王は大名の領主権を侵しません。ですから領主権は治外法権です。これは分権制と中央集権制とを分かつ決定的なことです。そしてこの革命的な変化は<廃県置藩>を実現したのです。それは武家による古代日本の終焉であり、そして中世日本の確立でした。この分権制の正体を精確に把握することは日本の歴史を理解するうえでとても重要です。
――(8)へ続きます

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