中世の本質(9)分権制

 国家体制には二種類あります。一つは中央集権制です、もう一つは分権制です。中央集権制は古代と現代の国家体制です。そして分権制は中世の国家体制です。
 古代の中央集権制は古代王が支配者であり、国家国民を一元的に支配する。そして現代の中央集権制は憲法が支配者であり、国家国民を一元的に支配します。
 もう一つの国家体制が分権制です。それは中世固有の体制です。この体制が生まれた経緯を紹介します。それは12世紀の関東の地で起こりました。当時、関東国の国土、国民、国家権力は頼朝によって20数名の封建領主たちに分与されていました。
 例えば、封建領主の一人、千葉氏は下総の地(千葉県北部)を所有し、毛利氏は相模の一部(神奈川県北部)を所有し、三浦氏は三浦半島を所有し、そして同時に彼らは領主権(行政権、司法権、課税権など)を握り、それを行使し、彼らの領民を支配していました。関東はパッチワークの国です。頼朝が関東の地を占有していたのではありません。国家権力は分散していました。すなわち頼朝は中世王であり、しかし古代王ではありません。
 領主の領主権は治外法権です。誰もそれを侵すことはできません。たとえ頼朝であっても、です。そもそも領主権を認めたものは頼朝でした。彼は本領安堵をすると同時に彼らの領主権を認めていたのです。
 領主は自立しています。頼朝も他の領主も領主権を尊重し、領主の行う領民裁判に口をはさみません、そして領主の領民への課税や徴税にも介入しません。これが分権制です。国土も国民も国家権力も領主たちに明確に分割、分与されているのです。そして分権制は。鎌倉時代、室町時代、桃山時代、江戸時代を通じて一貫して存続する中世の国家体制です。
 14世紀から15世紀にかけて足利将軍も国土の分割、分与を行っていました。例えば義満は30数名の守護大名にそれぞれの領国を与えます。その結果、守護大名、斯波氏は尾張、越前、加賀などを領有し、そして山名氏は但馬、伯耆、安芸などを領しました。
 秀吉も日本の国土をさらに細分化しました、そして200数十名の封建領主たちにそれぞれ領国を与えたのです。誰も日本全土を占有する者はいません。秀吉は近畿地方を所有していただけです。それ以外の国土は大名たちに分与されていました。
 秀吉も大名たちの領主権を尊重し、彼らの領国に侵入しません、彼らの領国経営に介入しない。大名の徴税権を奪うこともない、大名の定めた領国法に口をさしはさむこともしません。そして徳川も頼朝以来の分権制を堅持しました。
 このように国土、国民、国家権力が分割、分与されるという分権統治は古代王の王土、王民、王権が否定され、徹底的に細分化されたことを意味します。それは中央集権制の粉砕であり、中世の<分割主義>の成立でした。日本の国家体制は一変したのです。
 すなわち室町時代の日本も桃山時代の日本も国家体制は同じ分権制でした。義満も秀吉も日本国を分割し、大名たちの土地所有を認め、彼らの領主権を尊重していたのです。これは歴史事実です。室町時代と桃山時代は同じ支配者(中世王)と同じ国家体制(分権制)を備えています、その点、二つの時代は連続しています、しかし断絶していたのではありません。
(この論文は歴史論<中世化革命>からの引用です。それはアマゾンから出版されています。)

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