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高校生の皆さん! こんなふうにも楽しめるんダゼ? 文学ってやつは(〃▽〃)

宮沢賢治『なめとこ山の熊』

 皆さんは、宮沢賢治『なめとこ山の熊』を読んだことはありますか?
 僕は賢治が大好きなのですが、「どれか一作だけ選べ!」と言われれば、間違いなくこの作品を挙げます。
 猟師の小十郎と熊たちの織り成す切なく哀しい物語。
 小十郎に殺される宿命にある熊たちは、それでも小十郎が大好きで、そして、熊たちを殺さねば生きていけない小十郎もまた、熊たちが大好きで……。
 
 そんなに長い作品ではないので、まずはぜひ、読んでみてください……!

 ……どうでしょう?
 ……物語の最後に描かれる以下の場面、思わず息をのんでしまうほどに美しくないですか?。仕方なく小十郎を襲うしかなかった熊の手にかかり、ついに小十郎が絶命してゆくシーンです。

「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」
 もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。
「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。
 とにかくそれから三日目の晩だった。まるで氷の玉のような月がそらにかかっていた。雪は青白く明るく水は燐光をあげた。すばるや参(しん)の星が緑や橙(だいだい)にちらちらして呼吸をするように見えた。
 その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環(わ)になって集って各々黒い影を置き回々(フイフイ)教徒の祈るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったようになって置かれていた。
 思いなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのように冴え冴えして何か笑っているようにさえ見えたのだ。ほんとうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもじっと化石したようにうごかなかった。

 いや、もう、僕の無粋な解釈なんてバカバカしくなるほどに、本当に、震えるほどに凄まじい描写です……。

物語は〈どこ〉にある?

 とはいえ、今回は、その無粋な僕の解釈につきあってもらいます(笑)

 さて、上に引用した場面に、

それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。

という語りがありましたね?
 そうです。この『なめとこ山の熊』は、「私」が語っているという設定の物語なんです。
 でも、ちょっと不思議じゃないですか?
 だって、当たり前だけど「私」は「私」であって、「小十郎」ではない。それなのに、

もうおれは死んだと小十郎は思った。

とか、

「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。

など、語り手である「私」は、他者であるはずの「小十郎」の心の中を、直接に描写している……..。
 皆さんは、自分以外の人間の心の内を、直接に把握することはできますか?
 当然、できませんよね。
 であるなら語り手の「私」だって、他者である「小十郎」の内面を、「~と小十郎は思った」などと直接的には描くことができないはずなんです。
 それなのに、それをしてしまう。
 これは本来ならありえない描写です。

 ……でも、この物語であれば、それは許される。
 なぜか?
 実は、そのための仕掛けが、この物語の最初のほうにきちんと用意されているんです。それは、

ほんとうはなめとこ山も熊の胆(い)も私は自分で見たのではない。人から聞いたり考えたりしたことばかりだ。間ちがっているかもしれないけれども私はそう思うのだ。 

という記述。
 そうです。
 語り手である「私」は、この物語の舞台を――ということは、そこで起きた小十郎と熊たちをめぐるこの切ない出来事を、すべて、「自分で見たのではない」。あくまで、「人から聞いたり考えたりしたことばかり」なのですね。つまりは逆に言えばすべてが、語り手である「私」の頭の中で想像=創造されたストーリーであるわけです。
 ですから語り手の「私」は、本来であればうかがい知りようもないはずの他者、すなわち小十郎の内面を、直接的に描写することができる。
 だって熊も、小十郎も、すべては語り手が想像=創造した、つまりは語り手の支配下にある〈人物〉なのですから……。
 
 繰り返します。
 この物語は、あくまで語り手の頭の中にある。
 だから、語り手はすべてを語ることができる。
 その証拠に、例えば、

そこであんまり一ぺんに言ってしまって悪いけれどもなめとこ山あたりの熊は小十郎をすきなのだ。

などと、熊の心の内も「小十郎をすきなのだ」と直接的に述べることができるし、あるいは逆に、こんな叙述もあったりするわけです。

それから小十郎はふところからとぎすまされた小刀を出して熊の顎(あご)のとこから胸から腹へかけて皮をすうっと裂いていくのだった。それからあとの景色は僕は大きらいだ。けれどもとにかくおしまい小十郎がまっ赤な熊の胆(い)をせなかの木のひつに入れて血で毛がぼとぼと房になった毛皮を谷であらってくるくるまるめせなかにしょって自分もぐんなりした風で谷を下って行くことだけはたしかなのだ。

 語り手自身が「それからあとの景色は僕は大きらいだ」というように、この一連の情景は、語り手は本来であれば見たくないものであるはずなんです。
 それなのに、見えてしまう。
 そう。
 語り手の「私」はこの世界のすべてを創り出した創造主であるため、見たくないものも見えてしまうのですね……。

物語の伝えること

 話は変わりますが、僕は、この『なめとこ山の熊』を、〈断絶――超えられない壁〉を主題とする物語であると思っています。例えば、お互いを思いながらも殺し、殺されるという関係、それ自体が小十郎と熊たちの〈断絶――超えられない壁〉を象徴していますし、それに、中盤に描かれる熊の母子の会話――そしてその会話に聴き入った後の、小十郎の、

小十郎はなぜかもう胸がいっぱいになってもう一ぺん向うの谷の白い雪のような花と余念なく月光をあびて立っている母子の熊をちらっと見てそれから音をたてないようにこっそりこっそり戻りはじめた。

という行動なども、相手の領域を犯してはならないという切ないまでの思いを読み取ることができます。さらには、冒頭に引用したラストシーン中の、

思いなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのように冴え冴えして何か笑っているようにさえ見えたのだ。ほんとうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもじっと化石したようにうごかなかった。

という叙述もまた、小十郎の死を悼みながらも、そして愛する小十郎を囲みながらも、「化石したように」その場を動かず、小十郎に指一本触れようとはしない熊たちの様子が、両者の〈断絶――超えられない壁〉を描いていると思えてしまう……。

 しかし、と僕は思うんですね。
 この物語に描かれた〈断絶――超えられない壁〉は、果たして、小十郎と熊とのあいだのそれだけなのだろうか、と。本当は、もっともっと多層的な、より複雑な〈断絶――超えられない壁〉が描かれているのではないか、と。

圧倒的な隔たり

 ここでもう一度、冒頭に引用したクライマックスシーンに戻りたい。すなわち、

「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。

という叙述に。いや、もっと端的に、「それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない」という語りに。
 これ、おかしくないですか?
 だって先に整理した通り、語り手である「私」は、この物語のすべてを支配する、全知の存在なんです。ですから、本来であれば決して描くことのできないはずの他者(=小十郎、熊たち)の内面を、直接的に語ることができる……場合によっては、熊の解体シーンという、本来であれば見たくないものまでが見えてしまう……。
 それなのに、見えない。
 見えないから、語れない。
 死を迎えようとしている「それからあとの小十郎の心持」が。
「それからあとの小十郎の心持」という言う以上は、ここからもう少し、あとちょっとのあいだだけは、小十郎は命を保っていた……すなわち、「心持」を抱いていたはずなんです。そして、全知の語り手は、それを語ることができる――いや、たとえ語りたくなくとも、それが見えてしまうはずなのです。
 ところが、見えない。
 だから、語れない。
 となれば語り手は、この物語の終盤において、

究極的には他者の心のうちは、決して理解できるものではないのだ

ということを読者に示してしまったことになるのではないでしょうか? 
 残酷なまでに、ありありと。

 繰り返しますが、この作品に登場する小十郎も熊も、語り手である「私」が想像=創造した存在です。つまり、他者とはいえ、「私」の頭の中、「私」という存在のウチに生きる者たちなんです。
 いわゆる「ウチなる他者」というイメージですね。
 私たち個々人は、決して自律した存在ではなく、自らのウチに、実は他者、あるいは他者的な何かを有している――語り手はまず、そのことを伝えたかったのかもしれません。
 しかし、話はそこで終わりません。
 この、語り手「私」の想像=創造した、すなわち語り手「私」の統制下にあるはずの「ウチなる他者」たちが、最終的には、語り手の支配を逃れ、創造主たる語り手によってすら語り得ない存在となって旅立ってゆく――この世から、あるいは、物語世界から。
 これはある意味、究極の〈断絶――超えられない壁〉と言えるのではないでしょうか?
 なぜなら、自己のウチにある、自己が創り出したはずの存在ですら、他者は自己との間の圧倒的な隔たりをあらわにするわけですから……。

生きるということ

 語り手の「私」は、自らが想像=創造した物語世界の中で、まず、小十郎と熊との間に〈断絶――超えられない壁〉を設けた。のみならず、自己のウチに存在するはずの彼ら創られた他者たちでさえ、最終的にはうかがい知ることのできない者として対象化されてゆく。
 つまりはこの物語には、〈小十郎/熊たち〉、そして、〈小十郎と熊たち/語り手〉と、二重の断絶が組み込まれていることになります。
 いえ、もっと言えばあの美しいラストシーンにおいて、語り手である「私」は、その光景を見つめる自らの心情をいっさい語っていない。すなわち僕たち読者には、この時の語り手「私」が何を感じ、考えているのか、知りようがないのです。つまりここには、〈語り手/読者〉の断絶も読み取ることができるわけです。

 何重にも構造化された、〈断絶――超えられない壁〉。
 
 『なめとこ山の熊』が読者に示す主題の一つは、間違いなくそこにある、僕はこの作品を、そう解釈してみました。
 しかし、です。
 話はこれで終わらない。
 だってそれでも熊たちは、小十郎を見つめることをやめないのです。
 そして小十郎もまた、死してなお、熊たちのまなざしに返すかのように、その顔に笑みをたたえている。
 さらに語り手の「私」だって、徐々に物語世界からフェイドアウトしながらも、最後まで小十郎と熊たちの織りなす情景から目を離さない。
 そしてそこで描かれる光景は、あたかも一幅の静止画のように、読者の脳裏に焼きつけられてゆく…。

   他者との圧倒的な隔たりを思い知らされながらも、それでも他者を求めずにはいられない――そのような矛盾したありかたを、語り手は、僕たちが生きるということ、あるいは存在するということの根源的な姿、むきだしの真実であるとして描こうとしたのではないでしょうか。
 僕はこの『なめとこ山の熊』を、そのような物語として読みました。

蛇足

 このとりとめのない雑文に、僕は、「高校生の皆さん! こんなふうにも楽しめるんダゼ? 文学ってやつは(〃▽〃)」というタイトルを付けました。
 普段、文学を読む――あるいは授業で読まされる、テストや模試で解かされるとき、おそらく皆さんは、「場面わけをして~」とか、「登場人物の心情をとらえて~」などと意識していると思います。僕も予備校の授業では、当然、それらの点を強調しています。そういったオーソドックスな読みの作業は、文学を〈正確〉に読むうえでとても大切なことですからね。
 ただ、文学の楽しみかたは、決してそれだけじゃない。例えば僕はこの雑文で、「ん…? なんで『私』が小十郎や熊たちの内面を語れるの?」という疑問からスタートし、「ああそういうことか!」と納得……さらに、「ん…? じゃあなんで語り手は、ここでは小十郎の内面を語れないの!?」という疑念をきっかけに、一つの解釈にたどり着くことができました。簡単に言えば、

読んでいる途中で何か違和感を覚えたり矛盾を感じたところに着目し、そこに何かの意味を解釈する

という読み方を試してみたわけです。

   これ、はまると本当に楽しいんです。文学の味わい方の一つとして、ぜひ皆さんにも試してほしい。
 もちろんここでの解釈に、正解などはありません。皆さんの好きなように、心のおももくまま大胆に、"新たな意味"を解釈すればよいのですね。
 もしかして文学は、そういう誰にも邪魔されない自由な時間を享受させてくれる場として、そこにあるのかもしれません。

 では、今回はこれにて。
 皆さんが良き文学と良き出会いを果たすことができるよう、いつでも願っております(^^)




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