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鹿島茂「まえがきにかえて 理由は聞くな、本を読め」を読んで。

読書の素晴らしさを知り、それを他の人…とりわけ若い人たちに伝えたいと思っている人たちが、ほぼ皆、感じているであろうこと。

読書の効能とは「今になって振り返ってみれば」というかたちで「事後的」にしか確認できないことにある。言い換えると、事後的であるからこれから人生を始めようとする若者に向かって「読書するとこれこれの得があるから読書したほうがいいよ」と事前的にはいえないということだ。

あー…もう、それ……。
僕自身、幼少期の頃は措き、思春期の頃に読書を始めたきっかけは、ただ単に、「自分のようなダメ人間が文学とか読んでいたら、逆にギャップでかっこいいかもしれない」というしょうもない理由だった。そして、そこで出会った太宰治『人間失格』のあまりのおもしろさを知ったことで、「読書」の「効能」など一切考えることなく、とにかく太宰に夢中になるばかり……。

けれども、まさに「今になって振り返ってみれば」、あのときの太宰との出会いが、僕の人生を間違いなく豊かにしてくれたのだ。「豊かにしてくれた」などという、またそれっぽいけど抽象的な言い方しかできないのがもどかしいが、ただ、大げさではなく、もし本を読み続けてこなかったなら、僕は、今の生活、そして人生を送ることは、間違いなくできなかっただろう。もちろん、言葉の悪いほうの意味で。

だから僕も、若者たちに、

「本は素晴らしいよ! 本を読もう!」

と言いたい。ウザいほどに言いまくりたい。というか、あちらこちらで言っている。言いまくっている。

だけれども…

「なんでですか?」

と聞かれれば、

「いや…その…なんだ……あれだよ…人生がその、何だ…」

などと、もごもごしてしまうばかりなのである。いや、もちろんそれなりに"語る言葉"は持っています、持っていますけどね…まぁ、"それなり"でしかないんですよ、結局のところ…。

この仕事(予備校講師)を選んだ理由の一つは、受験という文脈で「読書」の「効能」を胸を張って若者に伝えることができるから、というのが大きい。"受験のための読書"なぞ不純なものかもしれないが、本の素晴らしさを伝える方便として、なにとぞご寛恕いただきたい。

が、やはり本心を言えば、僕とて、受験などという枠組みを取っ払って、読書の良さを伝えたい、本が人生を豊かにしてくれることを、教えてあげたい、という思いはある。ある…のだけれども、結局、

読書の効能とは「今になって振り返ってみれば」というかたちで「事後的」にしか確認できないことにある。言い換えると、事後的であるからこれから人生を始めようとする若者に向かって「読書するとこれこれの得があるから読書したほうがいいよ」と事前的にはいえないということだ。

ということになってしまう。
だからこそ、このエッセイの筆者、鹿島茂の、

読書の効能が事後的である以上、それを事前的に説明することはやめて、「理由は聞かずにとにかく読書しろ」と強制的・制度的に読書に導くこと、これしかないのである。

という言葉が、痛快すぎるほどに痛快なのだ。もう、

それそれそれそれ! それそれそれ!!

と、これを読んでいた電車の中で喝采を叫びそうになるほどに。

強権的?

強権的なら強権的でいい。

"読書の良さ"を知ってもらうためには、もはや"強権的"でも仕方ない…というフェイズを、この社会はすでに迎えてしまっていると思う。


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