ブンガクのことば【0087】

梯子をかけなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。手ずれ、指の垢で、黒くなっている。金文字で光っている。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それからすべての上に積もった塵がある。この塵は二、三十年かかってようやく積もった尊い塵である。静かな明日に打ち勝つほどの静かな塵である。

〜夏目漱石「三四郎」より〜

これまでにもたくさん、「三四郎」中に見られるおもしろい、あるいは興味深い表現を紹介してきたが、僕は、もしかしたらここに引用する一節が、この作品中で最も好きな叙述かもしれない。
語り手の目線は、まず積み上げられた書物それ自体の外観に向けられる。そして次に、紙の歴史性に。が、しかし、それは前振りに過ぎない。語り手が真に感嘆するのは、そこに積もる「塵」なのだ。書物それ自体の質感や美しさ、来歴は、あくまで「塵」という主題の額縁でしかない。
語り手は、ニ、三十年誰も触れなかった書物の上に積もった塵を、「尊い塵」と感受する。
そして僕はここに、ユーモアや諧謔、皮肉といった含意を見出したくはない。文字通り、「塵」は「尊い」ものなのだ。だからこそ、

>静かな明日に打ち勝つほどの静かな塵である。

という、よくよく考えれば何を言っているのか理解しがたいこの叙述もまた、有無を言わさぬ説得力を持って、読み手の心に沁み込んでくるのである。


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