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違星北斗という歌人

かつて文学の読みにおいては作者の思いを捉えようとする作家作品論が主流であったが、こうした考え方は、いわゆる近代主義的な主体概念や所有権などを象徴するものであると言えよう。
すなわち、個人は他とは区別された確固たる主体として存在し、そのような個人が生み出したものはその個人に独占的に所有権が認められる、という考え方だ。
こうした観念が強固な時代では、文学の読みにおいても、その作品を生み出した作者こそが独占的・排他的に、作品を、そして作品の意味を所有する唯一絶対の存在であるのだと考えられる。したがって読者は、そこに込められた作者の意図を解読することができれば、その作品を読めたことになる…というわけである。
しかしこうした読みの作法には、文学作品から読み取られる意味を、作者の意図なるものに一元化してしまう危険性がある。すなわち、作者という存在に焦点化し、すべてをそこに還元してゆく読みは、むしろ文学に潜在する意味の豊穣性を抑圧することにつながるのではないか…?
20世紀中頃以降の文学理論は、こうした懸念を背景として、文学における作者中心主義の解体を目論んできた。端的に言えば、〈文学に意味を与えるのは読者一人ひとりの解釈行為であり、それにより文学は、無限に意味を産出し続ける豊穣なテクストとなるのだ〉という発想だ。
僕はこうした考え方の洗礼をもろに浴びてきた世代で、いまだなお、その影響のもとに、様々な文章を読み、書いている。

しかしながら、最近、このように考えてしまうことがある。すなわち、

時には、その作品を著した作者に着目し、そこに解釈の軸を焦点化していくことで、逆に豊かな意味を産出するようなテクストもあるのではないか

と。
例えば、近代日本による暴力的な同化政策がとられた時代ーー同化とは、平等や公平とは似て非なる、むしろそれらとは対極にある概念であるーー、そんな時代を、アイヌとして生き、そして早逝した歌人、違星北斗の歌を読むとき、彼の出自やエスニシティ、生い立ち、生きた時代や社会を無視することは、果たして生産的な読みの営みと言えるのだろうか。
作者の絶対性を括弧にくくった20世紀の文学理論の意義は重々承知の上で、それでも僕はこの歌人を、"アイヌの歌人"として紹介したい。

滅亡に瀕するアイヌ民族に
せめては生きよ俺の此の歌
アイヌと云う新しくよい概念を
内地の人に与えたく思う



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