〈反ヘイト〉作品にヘイト表現を直接に描くという"方法"について。

先日、とある出版社から刊行されるはずだった新刊が、発売直前に出版社によって自主回収されるという出来事があった。ヘイターを主人公とする小説とのことで、作品中にヘイト表現が多く扱われているという。出版社内の編集者が刊行に反対し、上記のような事態になったらしい。

最初に断っておくが、私はこの作品には一切目を通していない。だから、作品に対しての直接的な言及はしない。ただ、この一連の出来事に対するとある反応に、私なりに思うところがあったので、それについてまとめてみたいと思う。

まず、この作品を実際に読んだ(連載ものであり、また、発売日前に流通していたらしい)少なからぬ読者が、この作品について、

明らかに〈反ヘイト〉の小説だ。

と断言していることに触れておきたい。もちろん、作品を擁護、応援する意図で。

なるほど。とすると、こうした擁護論からは、

〈反ヘイト〉を目的とする作品なら、そこにヘイト表現を書いたり引用したりすることは許される、あるいはその意味がある。

という考えを抽出することができるだろう。そしてここから本件について議論すべき論点を引き出すなら、

〈反ヘイト作品〉に、リアルなヘイト表現を引用、あるいは記述することの是非

ということになるはずだ。言い換えれば、

その作品が真に〈反ヘイト〉を目的とするものであったとして、ヘイト表現の記述・引用には、その目的を果たすうえで必然性があるのか

ということであり、さらに言えば、

そこにヘイト表現を記述・引用することで、〈反ヘイト〉というメッセージをより強く読み手や社会へと届けることができるようになるのか

ということであると思う。

いかな〈反ヘイト〉の小説であれ、例えばそこに記述・引用されたヘイト表現だけが一人歩きして誰かのもとに届いてしまう危険性はある。さらには、スクショなどによってTwitter等で悪用されることも考えられる。それを目にした小学生・中学生などが、"おもしろ半分"にその愚劣な表現を会話に用いてしまうかもしれない。そうした〈切り取られたヘイト表現〉が、ヘイトの宛先となっている人々の目や耳に入り、彼らにさらなる精神的な傷を与えてしまうことになる可能性も、大いにあるだろう。そのような諸々のリスクについて十分に考慮したうえで、それでも、ヘイト表現を記述・引用することに、〈反ヘイト〉という目的に資する何かがあると言えるのかどうか。争点は、そこなのではないだろうか。

リアリティを追求する、という意見もあるだろう。しかし、〈反ヘイト〉を主題とする作品に求められるリアリティとは、ヘイト表現それ自体の持つリアリティなのか。その作品が真に〈反ヘイト〉を描きたいなら、そこに必要なリアリティとは、ヘイトによって、その宛先である人々、あるいはヘイター本人にいったいどのようなことが起きるのか、その心的過程についてのリアリティではないのか。

いや──そもそも出来事をリアルに描くということは、古典的な意味での写実性に徹することを意味するのだろうか。むしろ、描かないこと、あるいは描けないということそれ自体が生成するリアリティというものこそが、そこに生じている出来事のおぞましさを、より迫真的なものとして読み手に示すことができるかもしれないのだ。

こうした諸々を考えて、なお、〈反ヘイト〉という目的に即して、ヘイト表現を記述・引用することの意義のほうが大きいというのであれば、そうした書き方をすることの持つ可能性について、建設的な議論もできるかもしれない。しかし、もし、そうでないのであれば──たとえ〈反ヘイト〉作品とて、そこでのヘイト表現の記述・引用は、センセーショナルに話題性を煽るためのコマーシャリズム的戦略と思われても仕方がないだろう。そうしてその場合、その作品はもはや、〈反ヘイト〉の作品とは言えなくなっているはずである。

くどいようだが、私は今回話題になった本は読んでいない。ここまで述べたことは、あくまで「〈反ヘイト〉作品にヘイト表現を記述・引用する」という方法一般についての話であり、当該作品や作者を非難するものではまったくないということを付言しておく。

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