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題は、『ピカドン』だったと思う。

母の口癖

母は昭和十年台の生まれで、東京の御徒町や渋谷に育った。つまり、東京大空襲を経験した人である。無事に帰ってきたとはいえ、父親…つまりは僕の祖父も、赤紙を受け取っている。

そんな母であればこそ、どうしてもわが子に"戦争の悲惨さ"を伝えたかったのだろう。

まだ僕が幼かった頃から、自身の戦争体験もよく口にしたし、戦争のドキュメンタリーが放送されると、きっとテレビをつけた。朝ドラが戦争期に入れば、「この時代にこんなもの食べられなかった」とか「防空壕は狭苦しくてね…」などと、憤ったり曇った顔でつぶやいたりした。本棚には『対馬丸』などの戦争モノの絵本を置き、8月6日、8月9日、8月15日には、必ず黙祷を捧げた。もちろん、僕も一緒だ。

あのころに比べれば、何があってもマシ。焼夷弾が降ってこないだけで、マシ。

母はしばしば、そんなことを言っていた。

ここで思い起こしているのは、僕が幼稚園、あるいは小学校低学年の頃の話だから、思えば今から約40年前。とすると、まだ敗戦してから30年と4,5~6年ほどしか経っていなかったことになる。東京大空襲で炎の海を逃げ惑ったのは、あの頃の母にとって、"つい昨日"のような出来事だったのだろう。

題は、『ピカドン』だったと思う。

小一の、たぶん、初夏くらいのことだった。

そんな母に、映画館に連れていかれた。

上映は二本立てだった。二本目は喜劇で、モノクロのサイレント映画だったと思う。たしかタイトルに、「やまたかぼう」という言葉があり、牛か馬かとコミカルにじゃれ合う内容だった。ラジオか何かを牛か馬かに飲み込まれてしまい、その腹のなかから音がする…みたいなストーリーだった。

でも、そのときの僕は、そのコメディを楽しむことなどできなかった。

二本立てのうちの一本目が、広島の原爆をテーマとするアニメだったのだ。

確か、『ピカドン』という題だった。

ショートムービーで、やはりサイレントだった(音楽は流れていたかもしれない)。ただし、モノクロではなく、色はついていた。

これは絵本だが、たぶん、この絵本を映像にしたものだと思う。

出勤前、ネクタイをしめる父親と、その足にからみついて遊ぶ子ども。

紙飛行機を嬉しそうに飛ばす幼な子。

わが子に乳をふくませる母親。

フィルムの途中までは、戦時下ではありながら、ささやかな幸福に満ちた日常の光景が、いろいろな視点から描かれていた。

ふと、何かに気づいた女性が、手をかざしながら、空を見上げる。他の人々も、同じように見上げる。

直後、すべてが壊れる。

人が、溶ける。

炭になる。

子どもの眼球が、どろりと落ちる。

アニメだから、おそらくは子ども向けに制作された映画なのだろうが、いっさいの"配慮"がなかった。幼な子の、血だらけの顔、目を剥き出しにして仰向けに寝転がる遺体のありようは、今でもはっきりと思い浮かべることができる。その引き攣った面持ちは、不思議にも、あたかも笑みを浮かべているかのようだった。

心が凍った。

何をどう受け止めればいいのか、まったくわからなかった。

引き攣った笑みが、自分に向けられているような気がする。今思い出しても、記憶の映像のなかで、その子は僕を、じっと見つめている。

僕の癖

以来僕には、妙な癖がついた。飛行機の音が聞こえてくると、手をかざし、空を見上げるという癖だ。映画のなかの、"その瞬間"の人たちと同じように。

なぜそんなことをするのかは、自分でもわからなかった。おそらく心理学的には、何かしらの名称がつく反応、行動なのだろう。その癖は、数年のあいだ続いた。

自然になくなったのではない。

あるとき、「もうこの癖はやめよう」と思ったのだ。

やめるとき、僕は、映画のなかの人たちに向け、「ごめんなさい。もう、この癖はやめます」と、心のなかで謝った。なぜ謝ったのかは、わからない。

大人になってから、母と『ピカドン』の話をした。癖についてはうまく説明することができなさそうなので、何も言わなかった。母は、「さすがにあれは、小学校一年生のあんたに見せるべきではなかったかもしれないって、後悔した」と言っていた。

僕は、どうだろうか。

親となった今、子どもたちに、『ピカドン』を見せることができるかどうか。

正直に言えば、その覚悟はない。その覚悟はないが、けれども、小学校一年生の僕に『ピカドン』を見せた母のことは、まったく恨んではいない。

幼な子の引き攣った笑みが僕を見つめ続けているかぎり、僕は、核攻撃や核武装を口にするすべての人たちのことを、厳しく糾弾する。

〈了〉

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