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「あはれ」について

中学生のとき、抜き打ちの「古文単語テスト」が実施されたことを覚えている。

無論、まったく対策などしていなかった。

だが、さすがに0点は取りたくない。

さはれ──などという古語はもちろん知らなかったが──と心を固めた私は、とある作戦を決行した。

さばれ
《「さはれ」とも》
[接]しかし。だが。
「吾は其悔の為にはかの憤を忘るべきか、―吾恋の旧むかしに復りて再び完かるを得るにあらず」〈紅葉・金色夜叉〉
[感]
1 まあ、とにかく。
「―あけ給へ」〈落窪・一〉
どうともなれ。ままよ。
「―、このついでにも死なばや」〈源・柏木〉
[補説]語源は「さはあれ」からとも、「さもあれ」からとも。

『デジタル大辞泉』「さばれ」より。太字は引用者

そういえば、古文の授業でやたら「趣き深い」という言葉を耳にした記憶があったのだ。

ならば「趣き深い」──と言われても当時の私には、この現代語自体の意味がよくつかめなく、いわばシニフィエなきシニフィアンとして脳裏に漂う音にすぎなかったのだが──この答えで、10個すべての解答欄を埋めてしまえ……!

この大博打、結果から言えば私の勝ちに終わった。そう。すべての解答欄を「趣き深い」で埋めたことで、0点は回避することができたのだから。10問中、2問──「をかし」と「あはれなり」──に、丸がついたのだから。

無論、点数としては不合格だ。つまり、テスト結果としては負けだ。だがしかし、私は自らの考えた作戦で見事に目的を遂げることができたのだから──曰く、勝負に負けて自分に勝った、といったところか──。

ところで、この出来事のあったずっとあと、大学受験で浪人していた頃か、はたまた、教育学部国語国文科に入学したあとか、私はこの「あはれ」という語について、

儚いものや小さなものを目の前にしたときの、胸が締めつけられるような思い

という語釈を目にした(か、耳にした)。

この語釈が学問的に正しいのか否かは、知らない。けれども、この語釈を知った瞬間、これまでいまいち腑に落ちなかった「あはれ」が、そういうことか…!と、具体的な感覚として、すっと心に染み込んでいったのだった。

それ以来、私は、道を歩くときにひらりと舞う落ち葉を目にしても、赤ちゃんのとろんと眠りかけたまぶたを目にしても、あるいは、煤けた昔の写真に過ぎ去った日々を思うときにも、心に「あはれ」をつぶやくようになってしまった。

もはや他の語彙では、この思いを表すことはできない。

現代語のどの心情語彙も──もちろん「趣き深い」も──、こうしたときの私の胸中を意味するものとして、しっくりこないのだ。

つまり私は、古語である「あはれ」を自分の語彙としたことで、自らの心情を、一段階深く、言い表わすことができるようになったということだ。

何かを言葉で言い表わすことができるというのは、その何かを認識し、理解するということでもある(もちろん、完全な認識や理解などあり得ないが)。

つまり私は、「あはれ」という古語を自分のものとすることで、自分の内面についての認識や理解を、少し、深めることができたのだろう。

言葉を知ることは、世界や自分への認識を深めることである。そしてそのとき、自らの母語の古典に属する語彙もまた、きっと、大きなプレゼンスを持つことになる。


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