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「うみかじ」1号を読んで

 それにしても、誰か──しかも、会ったこともない、顔を見たことすらない人の「日記」を読むとは、いったいどういうことなのか。

 書く人も、印刷物にそれを載せる以上、読み手の存在を意識していることは間違いない。

 とはいえ「日記」が「日記」である以上、そこに刻まれる言葉は極めてプライベートなものであり────などと考えながら「うみの辺野古日記。」「うみかじ」1号に所収)に目を通しているうちに、ふと、目にとまる一節に出会った。

川の水音や木の葉音があまりにきれいにきこえてくるから、かえってきもちが苦しくなる。おじゃましました、とちいさく手を合わせた。

うみ「うみの辺野古日記。」p. 12 

 日付には、10 月29日(土)とある。

 「あまりにきれい」な自然の情景のなかで、思わず「手を合わせ」てしまう、そんな書き手のうみさんは、大仰な身振りではなく、「ちいさく」ささやかな動きで、そうしてしまう。

 「「あまりにきれい」な自然」──そのなかでうみさんの抱く「きもちが苦しくなる」という述懐は、その意味するところをなかなかに言葉にはしがたいけれども、でも、とてつもなく大切な何かを示唆しているという確信を、読み手である私にもたらしてくれる。

 なぜならそうした美しい自然は、私たち人間と対照されるものとして語られているのだろうから。

 この一節は、うみさん「チビリガマ」を訪れた際の出来事を綴ったものである。

 「チビリガマ」については、「読谷村にあるガマ。沖縄戦において住民約140人がはいり、83名が「集団自決」をし、尊い命を失った」との書き出しで始まる注記が添えられている(12)。「集団自決」に括弧が付されているのは、「自決」の「自(みずか)ら」が含意する〈主体的選択としての死〉という意味を否定し、それが「国家」や「軍国主義教育」によって「強制された死」であることを、私たち読み手に意識させるためだ。

 うみさんが、「「あまりにきれい」な自然」と対照しながら綴ることで、こうした人間の愚かさは、私の胸に深く印象づけられる。

 だから私も、「きもちが苦しくなる」。

 そうして心のなかで、「ちいさく手を合わせ」る。あくまでも、ちいさく、ささやかに。

 うみさんという、顔も知らぬ誰かのプライベートな出来事は、言葉というものによって表され、めぐりめぐって、うみさんにとってはどこの誰とも知れぬ、この私という者の心を動かす。

 そうして私はこのように、その思いを、言葉にせずにはいられない。

 だから、うみさんが、自身の日記を振り返りながら綴る言葉のなかの、以下の一節は、とても示唆的である。

「うみの辺野古日記。」と題しましたが、わたしの孤独的な記録ではなく、辺野古で出会ったたくさんの「あなた」との会話の蓄積によって自然とことばが出てきたものです。どうもありがとう。これからもまだ見ぬ「あなた」とも話せるように、フレッシュな気持ちをたもちつづけたいと思います。

「うみの辺野古日記。」p. 12

 「まだ見ぬ「あなた」」としての私は、もう一度、心のなかで、「ちいさく手を合わせ」る。

 ZINE「うみかじ」のことを知ったのは、まめ書房さんの各種SNSへの投稿がきっかけだ。辺野古での座り込みに参加される方々の手になる、素朴でかわいらしく、けれども怒りと悲しみが幾重にも織り込まれ、そしてまた、希望と未来と力の漲るような、そんな冊子だ。「編集後記」を読むに、「うみかじ」とは、どうやら、海の風という意味らしい。

「うみかじ」1号。

  こんな言葉にも出会った。

我々[注…書き手のやさいさんは、沖縄の名護に暮らす方]はいいように利用されてる。この構図、これは一体なんだ…と思いながらも、お金も権力もない、私はただの市民。今日も明日も頑張るぞ!っていう気持ちです!!

やさい「ここで安心して暮らしたい」p, 14

 「お金も権力もない、私はただの市民。」という言葉と、「今日も明日も頑張るぞ!っていう気持ちです!!」ということばとの間の、飛躍。

 「ただの市民」であることと、「今日も明日も頑張る」こととの間には、一見、何の論理的なつながりもない。

 けれども、この飛躍にこそ、おそらく、言葉には言い表せないやさいさんの真の思い──もしかしたら、それはやさいさん本人にも意識はされていないかもしれない──が、深く深く、沈積している。

 それこそが、まことの言葉だ。

 私が思いを馳せねばならないものが、この飛躍の奥底にある。

 加えるなら、「今日も明日も頑張るぞ!」はやさいさんが自身に向けた言葉である。対して、「っていう気持ちです!!」とは、他ならぬこの私に向けられた言葉である。

 だから他ならぬこの私には、この言葉へと応答する義務がある。

 さらに、こんな言葉にも出会った。

あまたのモヤモヤ[注…この直前で、書き手のみなこさんは、基地が沖縄に生きる人々に強いる不安をいくつも挙げている]は、いつも心の隅っこにあって時々心を黒く塗り潰してくる。そして、それは今まで表に広げてはなんとなく出しにくいものでした。なぜならこんなモヤモヤは、口に出しても解決できない文句として処理されていくからです。

みなこ「座り込みに参加して思ったこと」p. 16

 「処理」という言葉の冷たさよ。

 そして、「表」に「出しにく」くさせてしまっているのは誰か、と言えば、その中には確実に、他ならぬこの私も含まれている。

 だから、やはり、他ならぬこの私は、この言葉へと応答しなくてはいけない。

 みなこさんの「心を黒く塗り潰してくる」ものを直接に、間接に、作っているのは、私だ。

 「処理」する主体も私なのだから、「処理」と言う言葉の冷たさは、つまりは、私の冷たさでもある。

 それにしても、「なんとなく出しにくい」の「なんとなく」は、本当に、怖い言葉だ。思いを、心の内を封じてしまう空気は、こうして「なんとなく」醸成されるため、あまり人々に意識されることもなく──気がついたときには、人間から人間を奪ってしまっているのだろう。みなこさんは、たぶん、そうしたことに抗っている。

 なかむさんのイラスト、素朴だが、確かな存在の輪郭が心地よい。

 サンゴの手触りがよみがえる。

 コロナ前、何度も家族で旅行した恩名。

 サンゴに寄せる思い、そこから喚起される思いはなかむさんと私とで異なれど、あの手触りを分かち持つことはできる。つぶつぶつぶ……つぶつぶつぶつぶ……

 そしてきっとそこから、何かが開ける。

 そう、信じたい。


引用文献
やさい/みなこ/うみ著「うみかじ」1号、2022年11月3日

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