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今あえて、文学の《実用性》を考える。

 文学――今、国語教育に携わる人たちの中で、その言葉が話題になっています。それは、今回の教育改革――大学入学共通テストに象徴される入試改革も含む――のなかで、「文学が軽視されているのではないか…?」という懸念が広まっているからです。
 果たして本当に、文学は教育改革の中で軽視されているのでしょうか? そしてもし軽視されているのならば、それは許されることなのでしょうか?

実用文と文学と

 文部科学省が発表した『高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 国語編』では、国語における新たな科目としての「論理国語」の項で、「実用文」という概念について、以下のように説明しています。

 実用的な文章とは,一般的には,実社会において,具体的な何かの目的やねらいを達するために書かれた文章のことであり,報道や広報の文章,案内,紹介,連絡,依頼などの文章や手紙のほか,会議や裁判などの記録,報告書,説明書,企画書,提案書などの実務的な文章,法令文,キャッチフレーズ,宣伝の文章などがある。また,インターネット上の様々な文章や電子メールの多くも,実務的な文章の一種と考えることができる。
 論理的な文章も実用的な文章も,小説,物語,詩,短歌,俳句などの文学的な文章を除いた文章である。

 文芸評論家の清水良典氏は、「『高ため』のプリンシプルから――『非文学』に抗して」(紅野謙介編『どうする? どうなる? これからの「国語」教育』幻戯書房に所収)の中で、新指導要領の中でのこういった国語の扱いについて、以下のように述べています。

国語教育の目的が、社会で実効力を持つ情報伝達や意思疎通のスキルに著しく特化されていることが分かる。もちろんそのような能力を育てることが、国語教育として必要不可欠であることは否定できない。しかし、それを習得する手段から「文学」が徹底的に排除されている点に、バランスを欠いた一種意図的な偏向が感じられるのだ。
これまでの国語の教材で大きなウェイトを占めてきた「小説、物語、詩、短歌、俳句などの文学作品」が、「論理的」「実用的」ではなく、むしろ有害である、と宣告されたことになる。

 残念ながら文科省のこうしたスタンスは、今現在、揺らいでいません。例えば2019年10月14日(月)「朝日新聞」朝刊の記事「高校の国語 文学を軽視?」(氏岡真弓氏)の中に、文部科学省視学官の大滝一登氏の、

社会に出て会議や折衝の場面で小説や物語、詩歌をそのまま使うわけではありません。そのため両科目(=必修科目である「現代の国語」、選択科目である「論理国語」…引用者注)の教材には、社会生活に必要な解説文や記録、報告書など『論理的』『実用的』な文章を扱います

という発言が紹介されています。そして同記事における同じく大滝氏の、「文学を軽視しているわけではありません」という発言は、新指導要領に対して現場から「文学を軽視しているのではないか?」という不安が投げかけられていることを、逆に照射するものでもありました。
 こうした懸念に対し、文科省の側は、「文学国語という選択科目を設けている以上、文学を軽視しているわけではない」と主張しています。が、上述の「社会に出て会議や折衝の場面で小説や物語、詩歌をそのまま使うわけではありません」あるいは「社会生活に必要な解説文や記録、報告書など『論理的』『実用的』な文章を扱います」といった視学官の発言は、すくなくとも《実用性》という観点からは、確かに文学を、「『論理的』『実用的』ではなく、むしろ有害である」と「宣告」したとも受け取れる……。

 果たして文学は、「論理的」「実用的」な文章に比べて、《実用性》に劣るものなのでしょうか?
 この問いに対して、僕は大きな声で、「否!」と訴えたい。

とある差別語について

 もちろん、文学の持つ豊かさ、可能性について、《実用性》という観点からそれを論じるということに異を唱える方もいらっしゃるかと思います。そして僕自身も、文学を《実用性》から考えることに、ある種のためらいはあります。
 しかしながら今回は、それでもあえて、こう言いたい。現代社会においては、文学を通じた学びこそが、きわめて《実用的》な国語学習なのだ!、と。

 そのことを考えるにあたって、まずは、以下の文章を引用してみたいと思います。恥ずかしながら、私のTwitterでの発言になります。

 このツイートは、とあるツイートに対する反論として発言したものです。そのとあるツイートとは、非常に大切な社会正義を主張する趣旨であるにかかわらず、それを実践できない人間を「ガイジ」として揶揄する内容でありました。
 では、この「ガイジ」とは、いったい何を意味する言葉なのでしょうか…?

見るに堪えない振る舞いをする非常識な者を指す、罵りや揶揄の込められた言い方。もっぱらインターネット上の電子掲示板などで用いられるネットスラング。(『実用日本語表現辞典』より)
https://www.weblio.jp/content/ガイジ
自分から見て理解のできない言動を行った者を批判するために使われる言葉である。○○ニキが尊称にも蔑称にもなりうる複雑な感情を含むのとは異なり、○○ガイジは批判的な意味しか持たない。
語源は、「障害児」の差別的略称であるが、現在のなんJでは障害児の意味でこの言葉が使われることはない。(『新・なんJ用語集wiki』より)
https://wikiwiki.jp/livejupiter/○○ガイジ

 「語源は、『障害児』の差別的略称である」という記述をお読みいただければ、この言葉が、決してその存在を許されるべきではない、唾棄すべき害悪であることは明らかです。しかしながら、より注目すべきは、「現在のなんJでは障害児の意味でこの言葉が使われることはない」という説明です。そう。実は多くの人間たちが、この言葉を「さしたる悪意もなく"ナチュラル"に」使ってしまっている。そして実際に、僕の上記ツイートに対して、「当人同士が他意なく用いているなら"ガイジ"の使用も問題ない。それに割って入っていって批判するのはむしろ"言葉狩り"だ」といった旨の批判も寄せられたのです…。

 はっきりと言います。
 これはとんでもない暴論です。
 それを発言する当人の意識がどうあれ、この下劣な言葉を目にし、耳にして、そしてその「語源」を知るがゆえに深く傷つく方々が、この社会には無数に存在するのですから……!

 当人がどのような意味で用いるかが問題なのではありません。大切なのは、その言葉を受け取った他者が、どう感じ、考えるのかということなのです。否、それをおもんぱかる〈想像力〉なのです。逆に言えば、「当人同士が悪意なく使っているのだから別にいい」などという言い方は、〈他者への想像力の、著しい欠如〉と言わざるを得ません。

文学の《実用性》

 もともとこの社会は、多様な人間の集合体です。そして近年では、例えば性的多様性、民族的多様性についても、良い意味でも悪い意味でも、日常的に話題となることが多くなってきました。また、政府の施策としての「外国人材(…嫌な言葉ですね…)」の受け入れが進んでいけば、社会の多様化には今後ますます拍車がかかることになるでしょう。つまりこれからの時代において、〈他者への想像力〉を身につけることは、この社会を健全に運営していくために絶対に欠かせない条件となるわけです。

 だからこそ、文学なのです。
 これからの社会においては、むしろ文学こそが《実用的》な文章になるのです。
 なぜならば、文学は〈無数の他者たちの声が集う場〉であり、したがって文学の読解とは、すなわち〈他者への想像力〉を育むことそのものであるのですから。

 太宰治『走れメロス』はご存じかと思います。その冒頭は、

メロスは激怒した。

という書き出しですが、これを語っているのは誰でしょうか? もちろん、作者である太宰治です。しかし、よくよく考えてみればちょっとおかしい。だって太宰はあくまで昭和の日本の作家であり、古代の都市シラクサの住民ではない。となると論理的に言って、太宰はメロスの行為をリアルタイムに描写することなどできないはずです。ましてやその内面を「激怒した」などと直接的に描くことなどもってのほか! したがってこの作品の読み手は、作者太宰治の存在とともに、古代シラクサの人間の心情を直接描写することのできる架空の存在=語り手を想定することになる。つまり、たったこれだけの短文にも、〈作者―語り手―メロス〉という、読者にとっての三人の他者が解釈されるわけです。また、クライマックスシーンともいえるメロスの激走場面では、

私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!メロス。

というメロスの内面の直接描写がありますが、ここで「走れ!メロス」と叫んでいるのは誰でしょうか? もちろんそれは、メロスでもあり、その言葉を読者に届ける語り手でもあり、原稿用紙に万年筆を走らせる太宰でもある。のみならず、おそらく読者もまた、「がんばれ!」という思いを込めて叫んでいる。そしてその読者とは、自分のみならず、これまでこの作品に触れてきた、そしてこれから触れていく、文字通り無数の人間のことでもあるわけです。さらにこの作品の最後には、

(古伝説と、シルレルの詩から。)

という結びがある。「シルレル」とは、ドイツ古典主義の詩人、シラーのことです。この結びの存在によって、『走れメロス』という作品は、さらに多層的、多声的な構造を獲得することになるわけですね。

 どうでしょう?
 たったこれだけの説明でも、文学という場には無数の他者性が交錯していることがご理解いただけたかと思います。まさに、

優れた小説は、必ずしも一元的ではなく、むしろ多元的な複数の要素から成り立っています。小説は特定の登場人物の心理を追いかけるだけのものではなく、その物語世界に現れたさまざまな人物の、性別や年齢、階層、国籍を超えた複数の立場がぶつかり合い、あるいは惹きつけ合い、それぞれの個性やことば、感情、信念や思想が錯綜するなかで動いていきます。
(紅野謙介『国語教育の危機――大学入学共通テストと新学習指導要領』ちくま新書)

ということになるのです……! 

 このような多声性の象徴であるような文学テクストに、多感な生徒たちが触れてゆくということ――作者の思い、語り手の意図、登場人物の内面、そして読み手としての自らが考えたこと、さらに、他の無数の読み手たちが感じたことについて、一つ一つ思いをはせてゆくこと。そしてそれによって、他者への想像力を自ら育んでゆくこと――それこそが、国語教育で文学を扱うことの、最大の意義なのではないでしょうか?

 繰り返します。
 現在行われている教育改革では、改革の当事者の意識がどうあれ、文学の軽視は確実に進行していると思われます。しかしながら、それは決して許されることではありません。なぜなら、文学を通して〈他者への想像力〉を育むことは、さらに多様化してゆくこれからの日本の社会をより良きものにしていくために、不可欠の条件になるのですから……!

 そうです。
 この社会においては、国語学習における実用性の追求は、文学にこそ求めねばならないのです。〈了〉

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