見出し画像

ゲンバノミライ(仮) 第57話 丸の智さん

自分にとって大事な仕事になる。そう思って乗り込んだ現場に、よりによってあの人がいるなんて。運が悪いというか、何というか。いや、むしろ、天が与えてくれたチャンスと思うべきなのか。
大事なのは平常心だ。磨き上げてきた自分の腕を信じて、いつも通り、一つ一つの作業を精緻に進めていけば良い。

真っ暗で高いと同時に深い縦穴。転落すれば命を失う危険な場所だ。巨大な生物が息を吸い上げるように風が下から上へと通り抜けていく。身が引き締まるのは、いつものこと。この空間にエレベーターを設置すると、建物を使う人にとって欠かせない大事な場になる。利便性と安全性というサービスをしっかりと提供するのが、自分の仕事だ。

藤川智は、エレベーターの据付工としてベテランの域に達している。数階建ての小さな建物や個人住宅から、一般的なビル、そして超高層ビルなど多くの現場でエレベーターを設置してきた。手掛けた数が3桁に入ったのはずいぶん前だ。すべてを完全に覚えている訳ではないが、今でも日々頑張って稼働してくれていると思うと自然と笑みがこぼれる。

自分の手を動かして、エレベーターが実際に動く姿を見ると、働いている実感がわいた。だが、現場に立つよりも、大型現場で複数の据え付け作業を統括することや、若手らの指導に当たる場面の方が多くなった。狭い場所で苦しい姿勢で上下を行き来したり、重たい資材を運んだりするのが、段々と辛くなってきている。自分を指導してくれた先輩達も、そうして段々と第一線から退いていった。ほっとする気持ちと、寂しい思いが行ったり来たりする。

来春に昇進を打診され、内諾していた。そうなると、現場に立つ機会は恐らく無くなる。だから、あの災害で大きな被害を受けた海辺の街の復興現場で人手が足りないと聞きつけ、すぐに志願した。末っ子が中学生になったから、少し家を離れても家族は大丈夫だろうという目算もあった。

ごくごく一般的な中層規模の複合ビルで、作業自体は、それほど難しいものではない。ただ、工期がタイトだった。多くの作業が輻輳する中で、昼夜2交代での早期完了が求められた。
そういう時こそ、手順通りに着実に進めることが重要になる。慌てて手戻りが生じれば、自分たちの作業だけではなく、内装などの後工程に影響を与えかねない。

エレベーターシャフト内に設置された工事用ゴンドラに乗り込むと、かご昇降用のガイドレールなどの位置を定めて印を付けて、全体の整合性を確認してからガイドレールを取り付けていく。かごを動かすための機械室での機器の設置や、各フロアの出入り口装置の据え付けなどを並行して進めていく。

一緒に働く小西茜は、地元の協力会社の社員で、おどおどしたタイプだった。物わかりは良く素直なのだが、いかんせん声が小さい。強めに言うと、びくっとされて、こちらの方が却って緊張してしまう。扱いが難しく、最もベテランの藤川が面倒を見ることになったのだ。

今日の夜勤は5人体制で、いつも通り一番の新米が小西だった。
「レールとクリップを必要な分だけ用意しておいて」
藤川が、そう告げると、か細く「はい…」と聞こえたような気がする。だが、はっきりとは分からない。感染症対策でマスクをしているので、小さな声はより聞きづらい。

当初は「若いから仕方がない」と我慢していたが、段々と苛々が募ってくる。
そういう時に限って、持ってきた部品の数が足りない。
よくあることだ。

「ちゃんと言ったよね。返事もしてたよね。しっかりしてくれ!」
「す、すいません。だって、どこまで必要か私、分からなくて…」
「えっ? 何? もっとはっきり言ってもらわないと分からないよ!」

現場内に藤川の怒鳴り声が響く。
そうすると、小西の声はもっと萎んでいく。
現場はコミュニケーションが何より大事だ。ギスギスした関係がどこかで芽生えると、チーム全体にも悪影響を与えてしまう。重々分かってはいるが、藤川達ら夜勤チームで作業が停滞すると、明日朝からの仕事の予定も狂う。そう思うと焦りが募る。

「藤川さん。深夜の作業お疲れ様」

後ろから話し掛けられた。復刻プロジェクトを一手に担うコーポレーティッド・ジョイントベンチャー(CJV)で、元方安全衛生管理者を務める皆川次郎だった。藤川にとって、苦い思い出のある相手だ。

この業界に入って数年経ち、先輩から離れて一人で送り込まれた最初の現場で、皆川が現場監督をしていた。あの頃は、まだまだ自信が無く、不安に包まれていた。仕事に慣れて作業内容は一通り分かっていたが、現場ごとによって条件などが微妙に違う。知らないことがちょっとでもあると、余裕がなくなってしまう。
初めはほんの少しの遅れだった。そうしたロスが積み重なり、予定通りの日数で間に合わない可能性が出ていた。分かった時点で、すぐに会社の上司に伝えなければいけなかった。電話を一本すれば済む話だった。だが、それができていなかった。

毎日開かれる工程会議で、皆川から「エレベーターの設置は予定通りで大丈夫ですか?」と聞かれ、答えに窮した。
「どうしましたか?」
「いや、あの…」
声に詰まって、そのまま泣き出してしまった。

「おいおい、エレベーターが遅れたら、仕上げが進まないじゃないか」
職長たちから不満の声が上がってきたところで、皆川がとどめを刺した。
「間に合うのか、間に合わないのか、はっきりしてくれ!」

会議の後、上司が呼ばれた。翌日から先輩社員が加わり、深夜にまで作業して、何とか間に合わせた。
「藤川さん、次からは頼むよ」
作業が終わって現場を離れる際、皆川は、そうは言ってくれたものの、まともに目を合わせることができなかった。
辞めたいと会社に申し出たが、仕事が忙しい時期という理由もあって慰留され、何とか踏みとどまった。

あえて外されていたのかもしれないが、あれから皆川の現場に行くことはなかった。ようやく回ってきた「次」の現場だった。

「皆川さん、お疲れ様です。すいません、ちょっと声を荒げてしまって」
「そうだったんですか? 
それより、今日はだいぶん冷え込んできましたね。寒い中で大変ですが、安全によろしくお願いします」
「もちろんです。十分に気をつけます」

たったそれだけのやり取りだが、周りにもメンバーがいる中で、自分と小西だけに目をやった皆川の視線から、言わんとすることが分かった気がした。
あの時との自分のように、若手を見守ってくれと。

「別の人間を寄越してくれ」。そう言うのは簡単だ。
だが、小さな失敗をしなければ成長などできない。叱ることと、チャンスを与え続けることは、共存できる。

「小西さん。分からなかったり、自信がなかったりすること自体は、全然いいんだよ。ただ、不安があればあるほど、早めに周りに伝えなければ駄目だよ。
だいたいのことは取り返しがつく。けれど、ギリギリになればなるほど余裕がなくなって、そうすると品質や安全に悪さするようなことが起きてしまう。それは絶対に避けたい」

「…」
小西はうなずいているが、返事をしているのかどうかは相変わらず分からない。

「小西さん。こうしよう。今はマスクもあって声が聞き取りにくいよね。
分かったら右手で丸、分からなかったり自信がなかったりしたら、左手でグー。
いい?」

小西は、こっちを向いて、右手をゆっくりと胸の前に持ってきて、丸を作った。
藤川は笑顔でうなずいた。

「何で足りなくなったか分かる?
このフロアから階高が変っているんだ。だから、今までと同じ間隔だと最後の取り合いが収まらない。
この部分にもう1カ所押さえが増えているだろ。図面でも、ほら、ここ」

藤川は、タブレットで3Dモデルを表示させ、拡大しながら説明した。

「小西さんは、こまめにメモして言われた通りにやろうとしている姿勢は評価しているよ。けれど、昨日までと同じとは限らない。ほかのメンバーは、階高のことは分かっていて、当たり前だと思っているから、わざわざそんなことまで言わないんだ。

目の前の仕事をしっかりやるためには、少しずつ広い視野で見渡すことが大事。それは周りの環境もそうだし、前の作業と後の作業っていう時間軸のことも含めてのことなんだ。

大丈夫、だんだんと見えてくるから」

小西は、右手で丸を作った。

藤川は、エレベーターシャフトに向かって、声を掛けた。
「望月さん、杉山さん。ちょっと予定変更。申し訳ないけれど、休憩時間を早めてくれないかな。
そこのレールを付けたら一休みして。その間に足りない分を取ってくるから。須田さんにも伝えておいて」

「ほーい」
「オッケー!」
威勢の良い声が返ってきた。

「あのレールまでやってしまおう。その後に足りない分を取りに行くよ。一緒に行くから大丈夫」

「すいません! ありがとうございます!」

一生懸命に絞り出された声。まだまだ小さいが、大事なのは声量じゃない。
泣きじゃくった自分だって、ここまで成長できた。小西だって、きっと大丈夫だ。

藤川は、自分に言い聞かせるように右手で丸を作って、小西に見せた。
小西からも、笑顔と右手の丸が返ってきた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?