私を変えた星野源の言葉 3

この言葉たちを読んで、誰かが、衝撃を受けたり、うるっときたり、クスッと笑ってくれますように。

みんなばらばらでいいじゃないか。そう思えるようになってからはずいぶんと楽になった。その時から集団の中でひとりになることを堂々と楽しめるようになった。
本当に優秀な集団というのは、おそらく「ひとつでいることを持続させることができる」人たちよりも、「全員が違うことを考えながら持続できる」人たちのことを言うんじゃないだろうか。
大きく傾くであろう世論の中で、私はいつものようにひとりになれるだろうか。
どんな人でも、生涯を通じて完璧なものを作り続けることはできないし、しかも、それが全て自分の好みに当てはまる確率はとても少ない。
ギャグとは破壊である。
ああつまらない。つまらないなあ。不幸だ。自分は不幸である。と、思っていた。今考えれば、思春期の自意識過剰による普通の悩みなのに、当時は余裕もなく結構つらい思いをしていた。しかし、とんねるずの番組を見ているときはそれを忘れられた。
たとえ戦争が起きたとしても、たとえ宝くじで二億円当たったとしても、たとえいきなり失業してホームレスになってしまったとしても、非常な現実を目の当たりにしながら、人は淡々と生活を続けなければならない。
どこかの国からミサイルが撃ち込まれ、日本全体が怒り狂って戦争に突入しようとしたとき、私は総理大臣のきんたまのことを声高に言うことができるだろうか。日本におけるきんたま的なものの存在を訴えることはできるだろうか。あの情けない形をしたきんたまに戦いは似合わないと、しっかり言うことができるだろうか。やっぱりどんな理由があっても、人の命は奪っちゃダメなんじゃないかと思い続けることが、私にはできるのだろうか。
私はずっとひとりだった。
あーやだやだ。そんなめんどくさいタイプの自分とはなるべくおさらばしたい。しかし、そういったことを考えている自分もまた、自分のことしか考えていない自己中心的な「気にしい」であることに変わりはない。って、この短い段落に自分という言葉が三回も出てきた。めんどくさいなあ、自分。
吾輩はばかである。名前は、あるけど忘れた。
化けるって自分が戦っていくための鎧みたいなイメージがあって、すごく好きです。
くだらないものこそ、真面目にやらねばならんのです。
あと少しで死んでしまうというとき、走馬灯のように人生を振り返って、「あぁ、ひとりじゃなかったんだ」と思えたら、きっとすごく幸せなんだろう。
説明しよう!「ものづくり地獄」とは、自分の表現や作品づくりに情熱を注ぐあまり生半可なものでは満足できなくなり、試行錯誤を繰り返しては悩み、なかなか完成せずノイローゼ状態となって産みの苦しみと作る喜びの狭間を行ったり来たり繰り返す、無限地獄のごとき生活のことである!
自分の本心を内に込めたまま妥協したり、反対に暴力的なわがままで押し通したり、そんなことを繰り返してしまうと、どうしても孤独になっていく。そこで一番大事になってくるのは、やっぱりコミュニケーションだ。
全ての人に平等に課せられているものは、いずれ訪れる「死」と、それまで延々とつづく「生活」だけなのである。
子供の頃チャリティ番組を観てて、「世界はひとつ」って言われたときに、ものすごく違和感があったんです。何故そう感じるのか自分でもよくわからなくって、ずっと考えてたんですね。で、「ひとつになる」っていうことがそもそも違うんじゃないかなと思ったんです。
あの人みたいになりたいとか思うんだけど、それをやるには自分がかっこいいと思うことをするしかなくて。
かっこ悪いことをしないっていうことしかないんですよ。自分がこれやったらかっこ悪いな、でもやりたくなっちゃうな、って事を頑張ってやらないっていう。
僕は虚構とか妄想が好きなんで、どう生活の中で現実との折り合いを付けていくかっていつも考えているんです。
どんなに辛い現実の中にも、ユーモアや笑いが隠されているということだ。いい人生だったかどうかは、それをどれだけ見つけられるかにかかっている。幸せかどうかは、自分が決めるのだ。
「カワイイはつくれる」のと一緒で「事実はつくれる」と思う。本物という概念は、本質的に危ういものである。さらにそんな「事実」とは別に、本物と偽物は、思う人の数だけ無数にあって、それが同じ一つの対象でも見る人の目線によって違う。



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