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竹アート「鹿除け柵」 2021

第一次完成報告

等彌神社 神饌田 竹アート「鹿除け柵」

「鹿除け柵」は、等彌(とみ)神社の神饌田(しんせんでん:神様に捧げる米を作る田)を鹿や猪から守るための柵です。

2021年1月11日制作開始、2月21日に第一次完成。
設置場所:等彌神社 神饌田(奈良県桜井市)
素材:竹、杉間伐材、棕梠縄、米松材、鉄ビス、結束バンド、麻

制作に参加してくださった皆様、ご支援、ご指導いただいた皆様、ありがとうございました。

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        (↑ 第一次完成した「鹿除け柵」  撮影:三橋玄)


1、基本コンセプト


 これまでシンボルやオブジェ、装飾など実質的な「機能」のないものを作ってきたぼくにとって「機能を持ったアート作品」の制作は挑戦でした。

 本作品の機能であり、基本コンセプトは、名前の通り「鹿除け柵」です。
 つまりは、獣害対策、動物の侵入を防ぐ柵です。

 2021年の正月に等彌神社にご挨拶に伺った際、神饌田に鹿が入って米を食べられてしまったので、なんとかならないだろうか、と相談されたことが始まりでした。
 後日、神饌田の田作長である難波良寛氏を紹介され、現場を見ながら話しているうち、側に生えている竹の素晴らしさに気づき、柵を作るアイディアが沸き上がってきて、「この柵をアートにしましょう!」と宣言してしまいました。
 
鹿は数が増える一方で山の食料は減り、生きるために必死な鹿や猪は年々その行動範囲を広げ、田畑にも侵入してきます。野生動物の能力や生きることへの執念は凄まじく、それを防ぐ防御柵を作ることは、生きるための闘いなのです。

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                 (↑ 着工前の現地 撮影:三橋玄)


 自然と仲良く、地球に優しく、エコ、という耳触りのいい言葉が溢れ出したのはいつ頃だったでしょうか?
 自然を意識させる商品が数多くのある一方で、実生活においては逆に自然から離れていっているように思えます。自然は観念的なものになっています。

 高度に工業化し、強大な技術を得ても、人は生物の一つであり、自然の恵みを得て生きていくものであることは変わりません。
 
 生きるということは、人間にとっても、他の命と同様に他者の犠牲の上に生き延びる、ということです。犠牲が見えにくい構造の中にいるだけで、私たちは夥しい命を犠牲にしながら日々を生きています。
 その生きることの真実に目を背けた時代だからこそ、ぼくは生きること、サバイバルをテーマにしたい。
 第一に、この「鹿除け柵」は生きるために、自然と闘うためのものであるのです。その基礎に立ち返り、自分たちのやるべきことを考えるきっかけとなりたいと思いました。

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                                                           (↑柱材の皮を剥く  撮影:三橋玄)


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                               (↑ 柱材の皮を剥く   撮影:三橋玄)



2、アート作品としての鹿除け柵

 では、その自然と闘うための装置をアートにするのは何故か?
 
 防御や戦闘というシビアな機能を持つ道具や建造物にも機能だけではなくアートを求めるのが人間ではないかと、ぼくは思うのです。
 それは世界中の鎧、甲冑、城、刀、銃などを見れば明白でしょう。
 甲虫や蝶たちも然り。
 生き物は全身を着飾って生存競争に赴くのです。

 きっと、それは性なのでしょう。
どんな時も楽しむことを求め、美しくあろうとし、精神を鼓舞する。
 生き延びるかどうかの瀬戸際になった時、その状態を楽しんでいる方が生き残る可能性が高いのではないでしょうか?
 水を得るために毎日歩くとしたら、景色を楽しみながら歩いた方がへたばらないでしょう。
 楽しむ者は強い。

 柵作りも楽しむことが必要だと考え、また、ぼく自身が作ることを楽しむために、これをアートにすることにしました。

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               (↑ 杭を焼く人々  撮影:三橋玄)

3、奉納アート

 この柵は、神様にお供えするお米を守るものですから、制作が奉納神事となりました。
 奉納とは、神様に捧げるということ。
 捧げるとは、私を捨てるということ。

奉納することによって、自分の力、想像を超えたことが起こり始めます。

 ぼくは決して信心深い人間ではありません。神様に何かを捧げたからといって、それが自分に益をもたらしてくれると強く信じているわけではなく、少しはいいことあるかな?くらいに思ってます。
 なのに、何故か「奉納します。」と言ってしまう。
 そういう自分を超えたものに動かされることがあります。

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       (↑ 2021.02.17 等彌神社 上津尾社      撮影:三橋玄)

 ふとどきかもしれませんが、「こういうものを神様に捧げたらおもしろいいんじゃないか?」というワクワクもあります。

 奉納制作ということを始めると、それはもはやぼくだけの作品作りではなくなります。一緒にやろう、と多くの人が参加してくれるようになります。規模が次々に大きくなっていき、ぼくはそれを実現するために走り回ることになります。それは大変なことですが、自分の力を超えた創造が実現していくことは、何にも代え難いことです。自分の思考も開かれていきます。
 作業開始の時には神様へのご挨拶とお祓いの神事を行っていただき、場と私たちを清めていただいたのちに、最初の工程である杭のための穴を掘り始めました。
以降、節目ごとに計5回の神事を執り行っていただきました。

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    (着工前、場を祓う佐藤宮司と織田禰宜   ↑撮影:三橋玄)


4、伝承の場

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    (↑技術と知恵を伝える     撮影:難波良寛)

 神事となった制作に参加してくれた人たちの中に、自分が持っている技術をここで伝えたい、という人がいました。80歳になるその方は、子どもの頃におじいさんから受け継いだ生活や農業の基礎になる技術や工夫をしっかりと覚えておられ、そうした知恵や技術が今まさに消えていこうとしていることに心を痛め、ご自分が伝えられるものを伝えたいと思っていました。
 この方がその技術と知恵を惜しみなく教えて下さったことで「鹿除け柵」に「伝承の場」という新しい役目が生じました。
 石垣、竹垣などの昔からの工法が組み入れられ、柵が強化され、見た目も美しくなりました。
 しかし、それ以上に大切だったのは、この制作が伝統技術の継承の場となった事です。伝えられるものを伝えたいという人がいて、それを受け継ぎたい、習得したいという人たちがいる。
「鹿除け柵」は熱気溢れる伝承の場となりました。

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             (↑ 男結びを実践習得  撮影:三橋玄)


4、そこにある素材

 伝統的な技術の伝承を組み込みながら神様への奉納として柵を作る。そこで重要となったのは、自分たちの手近にあるものを工夫して使う、という事でした。

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              (↑ 雪にしなる竹     撮影:三橋玄)

 柵を作る場所の周辺には竹が生えていました。細くて節間の長い竹でした。この竹を切り、割らずに丸のままで水平方向に並べていくことにしました。中央に門を開き、そこから左右に柵棒が広がるという基本構造はこの竹から得た着想でした。


 この竹を柵にするためには細く軽く強い柱が必要でした。ぼくはハザの木を思い出しました。
 稲穂を天日乾燥させるために組む架をハザといい、それには杉や檜の間伐材が使われます。細くて軽いのに、まっすぐ長くて、強い。天日干しをする農家は減り、ハザは使わなくなっており、昨年米作りを始めたぼくはいろいろなところでハザ木をいただきました。
 その中に一年ほど前に切ったばかりで、皮を剥いていないものがあって、それはハザに使わずに置いていました。これが柵の柱にぴったりでした。
 太い方を焚火で焼いて防腐処理とし、杭穴を掘って埋めました。


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           (↑ 杭を焼く     撮影:三橋しずく)

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               (↑ 焼杭     撮影:三橋しずく)

 杭穴の掘り方もいろいろな方法があるのですが、手動で螺旋の刃をねじり込むスパイラルボーラーという道具で掘りました。


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(↑ 杭穴を掘るスパイラルボーラーを持って来て、掘ってくれた杉本さん
                           撮影:三橋玄)


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            (↑ 2本立ちました     撮影:三橋玄)

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                  (↑ 杭の穴  撮影:三橋しずく)


 12本の杭を打ち終え、周囲を見渡すと大きな石が積んである一角がありました。境内の工事で出てきた不要になった石が積まれてあるのでした。今日の作業は終わり、という時間でしたが、石も並べよう、と古老が言い、えっ?これから?と皆が顔を見合わせたのですが、はい!と運び始めました。教えられながらロープを掛けて大きな石を引いてみると、子どももいっしょに大きな石を運べる。
 俄然、皆が動き始め、大きな石が運ばれ、次々に並べられていきました。こうして石垣の上に竹垣が並ぶという防御柵にふさわしい作りとなっていきました。


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                       (↑ 撮影:難波良寛)


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                    (↑撮影:難波良寛)

 行き当たりばったり、生まれたアイディア即採用、という作り方を重ねました。しかし、最終的に出来上がった柵には調和があります。それは計算や加工技術によって生まれたものではありません。その場にあった自然の恵みを生かそうとした結果なのだと思います。そこにあるものの中にすでに調和があったのです。


5、基本工程


 ここで「鹿除け柵」の基本工程をまとめておきます。

①杭の準備:杭の土に埋まる部分の皮を剥いて焚火で焼き焦がす。

②穴掘り: 杭を埋めるための穴を掘る。

③杭立て: 穴に杭を刺し、埋め固める。

④石垣: 柵の底部に石を組み並べる。

⑤柵組み: 杭に水平方向の竹を結び留める。

⑥竹垣: 石垣の上の部分に背の低い「建仁寺垣」を作る。

⑦鳥: 中央上部に鳥の形を割り竹で組む。

⑧火入れ: 柵中央手前に石を組み、火を焚く。

各工程の詳細は別の記事で書くことにします。

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                         (↑撮影:三橋玄)


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           (↑ 柵の裾を固める建仁寺垣   撮影:三橋玄)


6、習得技術


その工程の中で以下のような技術を学び、実践しました。
①竹切り 竹をいつ、どのように切り、どのように加工すればいいのか。

②杭打ち 杭の加工、穴の掘り方、杭の立て方、固め型

③柵組み 竹を使った柵の組み立て方

④紐結び 庭仕事の基礎「男結び」

⑤石組み 石の選び方、運び方、組み方、並べ方

⑥建仁寺垣 竹垣の基礎、竹の割り方、並べ方、留め方、脂抜き

⑦ノコギリ、インパクトドライバー、バール、スパイラルボーラー、エアー釘など基礎的な道具の使い方

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                     (↑撮影:難波良寛)

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                     (↑撮影:難波良寛)

7、米作りという背景

 ぼくは去年初めて田んぼを借りてお米を作りました。
 新型コロナウイルスの流行でイベントに関わるぼくの仕事はほとんどなくなりました。生活の基盤に立ち返り、自然との関わりを見つめ直したい、という気持ちがあったのかもしれません。
 40年以上使われていないという田んぼを友人に紹介され、準備も勉強もしないまま始め、夢中で作ったのでしたが、そこでの体験がぼくに少なからぬ影響を与えたのかもしれません。


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           (↑ 2020年の田んぼ・出穂   撮影:三橋玄)


 この一年があったからこそ、田んぼを守る鹿除け柵をアートにしようという発想が生まれ、柵を作ることが神様への奉納になると思えたのだと思います。

 米作りは生活の基盤にあり、一年は米作りを軸として進んでいきます。

 ぼくにとって柵を作ることが今年の米作りの始まりとなったのでした。
 1月、2月の寒い時期に柵を作るのは、この年の稲作の準備としていい始まりだったと思います。
1月11日の着工から2月21日の完成奉納まで41日間の中には5月並みという異常な陽気も、その後に来た歴史的寒波による吹雪もありました。まるで四季を過ごしたような日々でした。

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              (↑ 雪の柵   撮影:三橋玄)


8、芸能奉納


 多くの人が参加し、伝統技法も組み込まれた「鹿除け柵」は、火を入れることで完成します。火は、人類のサバイバル、自然との闘いの象徴です。何千年もの間、人々は燃える火を頼って寒い夜に耐え、獣を退けてきたのでしょう。その火はこの柵になくてはならないものなのです。

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                        (↑撮影:三橋玄)



 ご縁が繋がり、完成火入れの夜、奈良市の「漢國神社(かんごうじんじゃ)韓園講(からそのこう)」が獅子舞神楽を奉納してくださることになりました。
 現在の獅子舞は中国から入ってきたものですが、それ以前に日本にあった獅子舞は鹿や猪に悪さをしないようにお願いするという意味があったそうです。まさにこの柵の誕生に獅子舞はぴったりです。

 獅子舞神楽奉納の話もまたぼくの意図を超えて広がっていき、二晩に渡って9名の方々が広い境内を宮参りをしながら練り歩き、日没の頃に柵の中央に燃える火の前で奉納してくださるというたいへん豪勢なものになりました。

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                     (↑撮影:若林梅香)

 柵の前に4本の竹が立てられた、それぞれを結んだ縄に垂が付けられ、結界が現れ、その前に火が燃え上がり、後ろの山並みに夕日が沈んでいく中に、太鼓と笛の調べが流れた時、まさにこの舞台のためにこの柵はあったのだと思えました。周囲が呼応し、何かを発しているようでした。

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                    (↑撮影:吉田遊福)

 奉納が始まる前の神事に向かおうと、遠くから流れてくる太鼓と笛の音を聴きながら鬱蒼とした木々に囲まれた境内を抜け、拝殿に上がる石段を登ったとき、お神楽がはっきりと聴こえてきました。その時ぼくは、自分の中の原風景とでもいう感情が起こるのを感じました。
 ぼくは転々として育ったためか、幼少期のお祭りの記憶というのが強くあるわけではないのですが、それでもうきうきと浮き立つ感情と厳粛さが同居する、懐かしさも含んだ何とも言えないものを感じました。

 それは自分の個人的な体験とだけ結びついたものではなく、きっと日本で生まれ育たなくても、初めてお神楽を聴いた人であっても、ある種の懐かしさを感じるのではないか、と思いました。
生まれ育った環境や経験に強く結び付いているように思えても、じつはそれを超えて万人に訴えかける力が伝統芸能にはあるように思えます。
 ヨーロッパの古楽や民族音楽を何の予備知識もなく聴いたとき、同じような懐かしさと哀愁を感じたことを思い出します。少数民族の言葉で歌っている意味はさっぱりわからないのに、込められた感情が伝わってきます。

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                        (↑ 撮影 藪内尚子)

 さて、鹿除け柵前に戻り、勇壮な剣の舞と獅子舞に続いて、韓園講を指導する豊来家玉之助師匠が「猿田彦舞」や「へべれけさん」などの舞や芸の数々を披露してくださり、勇壮さと笑いに包まれた盛大なお祭りになりました。

 「漢國神社韓園講」の中心になっている奈良県御杖村の「桃俣獅子舞保存会」もまた高齢化した村で獅子舞受け継ぐ人がいなくなり、絶やしたくないという人たちが地域を超えて受け継げる人に伝えたいという思いで活動されています。

 ここにもまた「継承」の場であったのでした。

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                  (↑ 撮影 藪内尚子)


 お宮参りで長い距離を練り歩いたり、長い演目を演じるという機会もなかなかなく、このフルセットとでもいう場を踏めたのはいい経験になったと言っていただきました。それを見ていた人の中にも「かっこいい!やってみたい。」「習ってみたい。」という人がいました。
 獅子舞神楽にとっても実践的な継承の場になったのでした。

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                        (↑ 撮影 藪内心優)


9、これから


 竹アート「鹿除け柵」の制作は、奉納神事となったことでぼく一人の手を離れ、大勢の人の人によって作られ、盛大なお祭りとなりました。
 これは柵の完成であるとともに、この年の米つくりの始まりを祝すものでもありました。

 これから苗を育て、田植えが始まり、秋に収穫し、神様に供える、ことで一年が完了します。その間に鹿が柵を破って侵入するかもしれません。そうしたら改良、修繕して強化し、闘いが続きます。


 翌年にはまた柵を点検補修し、新しい米作りが始まるでしょう。毎年の巡利の中で「鹿除け柵」も生まれ変わっていってほしいと思います。

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 そして、もう一つの始まりがあります。

 この作品の最大の意義は、自然素材を使った手仕事や芸能の実践的な継承の場となったことです。
 何かを作るための現場で実際の作業をしながら学び、伝え、受け継いでいく。実践的な技術は連鎖的に結びついています。一つのものを作るには、いくつかの技術が必要で、ひとつの基礎的技術が習得できれば次の技術につながっていきます。
 そして、学んだことを、次の人に伝えていく。
 教えることで理解を深め、技術と知恵が広がっていく。

 そのような伝承の場をこの「鹿除け柵」から作っていきたいと思います。

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 大事なことを忘れていましたが、この柵作りはまだ終わっていません。

 今、この柵は開いた状態の「門」です。
 まずは神様や人やエネルギー、獅子舞などを神饌田に迎え入れる、その門を作りたかった。そして、しかるべき時には門を閉じる必要があります。

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 柵の側面はまだできていません。
 積まれた石を動かして配置し、竹藪を整備し、この一帯を神饌田の庭にふさわしい場所にしていきたいと思います。

 ここから新しい流れが生まれようとしています。


 どうぞこれからもご参加、ご支援、ご指導をよろしくお願いします。
 

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