描くのは一瞬じゃ、できなくて
「あ!描こう(書こう)」
と思ったことの漠然なイメージ、色や風がすごい広がってる時、その"一瞬"はわりと完璧、でもどこにも焼き付いてない"あやふや"。それを、その新鮮なうちにに紡いでおがないと、次の瞬間すぐ消える・またはちょっと捏造してわからない程度に質感が変わってしまう…っていうのが私の体質や感性の中にある。(困る〜)
というか、この体質のおかげで、絵にして残そうとするという運動が、私の人生の中に生まれたのだろうなぁと思う。
困ったりするのも、制作の一部で、スパイス。
こうやって書くと、いつも妄想の世界に生きてるみたいに見えるか。
でも、スピリチュアルや空想ではなくて、わりと現実的な数学や哲学や物理、あと天文学や生物学などの光や時間や命から感じることの中でわたしは絵を創造してます。
描いている途中の時間は、
「あ!描こう(書こう)」と思った
という瞬間の脳内からは、
もう時間が進んでいて。時差。
表現は、捕まえられなくなってたり、変わっていったり、むしろほかの描きたいが湧いてて何個も脳みその中に世界が生まれてて、今日焼き付けられない生まれるだけの日だ〜とかもあって。で、その何個もあるもの捕まえられなかったりの、脳内バタバタ世界。脳内のイメージをシャッター切ってパシャパシャ撮れるわけでもなくて。
そして、時が過ぎたらそれは
存在してないのと同じになっちゃう
それをどう出力するか、一個ずつを、感性の力量と、体力(と経験?)で焼き付ける。道具とのスピードもある。その関係性と自分の感受性と脳内のチグハグを鍛えたり試したり研究したりで、今日まで絵を描いて生きてきました。
あと、描いてるその時の表現のことではなく、他を引き立たせるために、ふと置いた、色や線や筆跡の面積が偶然に良いものになることも。
脳内オーケストラの楽器たち、いい音が出ても、同時に主旋律を奏でたら大変!みたいになって混乱を交通整理しながら、一瞬一瞬決定して置いてゆく筆跡。
これの繰り返し。思ってたことが全て焼き付いてるわけではないし、思ってるからって焼きつかず、結局この世に出てこない表現やアイデアもたくさんたくさんある。
んで、そして、自分の分野以外の世界も、消費者(傍観者)の捉え方でなく、クリエイター目線に置き換え観察すると、もしくは能動的な視点の分量を多くしたら、こういうことが一歩ずつ、グンと深く主観の世界で息をして、体験も経験ももうひとつ深く創造できたり、自らの視点を多面に増やせるんじゃないかなぁと思っています。
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