音の意味と世界の視野

 音が世界の視野と等しいのなら、その聴いているという事実の派生のなさは確信的だが、どの音に意味があるのかはゲームの主体にとって必然的ではない。もし映画の中に視野に収められることのない浮いた音があるのだとしたら、それは雑音でありノイズであり意図的に配置された無意味さでしかないだろう。しかし生活音や環境音が社会的ゲームの規則とリンクしている場合は、どの音が意図を発していてそうでないかを識別することが「自動的に」できるのでなければならないことが重要になる。つまり音から「逃げる」ことができるためには、どの音が危険であるのかを「認知」しなければならない。これは映画ではありえないことだ。映画では音が危険であるシグナルを超えて表すことがあってはならない。なぜならもし音が耳に対して直接危害を加えるほど大きかったり歪曲されている場合は世界と現前の距離が失われてしまうからだ。だからその音に解釈の余地は存在せず、「安全な音」を画面の視野の中に囲い込まなくてはならなくなる。俗にいう、〈耳が遠くなる〉、とは画面の中の音しか音の意味を拾わなくなっているということを言い表す危機を示している。つまり音の安全さが世界の視野ではなくて、もはや身体的な現前の内部を示す画面の雰囲気にしか存在しない。

 音と世界の感覚の現前性を区別するためにはどうしたらよいのだろうか。それは音が跳ね返る連なりの連続を言葉の音節の内容ではなくシニフィアンの意味表象の配列にしたがって区切ることだ。これこそフロイトが発見した契機ではないだろうか。スタンリー・カヴェルはこのことについて映画の視点の文脈の解釈の独自性に関してしか考えていないように思われる。もちろんすべての映画に共通した意味の区切りの配列を表すような音の連鎖があると言いたいわけではない。そうではなくて写真とカメラのシーケンスの自動化の連続が世界の他者の認知の現前でなしに言葉の語りという意味を超えて音が連鎖として構造的な配列を生み出すということを映画は出来事の認知の体験性と区別できないやり方でしか理解することができないということである。なぜならもし映画の視野の現前と音楽の生成の時間性が意味として乖離しているとしたら夢遊病のような記憶の連続性の脱線を生み出してしまうから。これは認知症の原因と類似している記述である。だから世界の現前の視線と音の現前の生成が視野として捉えられることは必ずしも領域としては重なるわけではないし、意味内容としての重複がそれ自体の記憶性から取り出されなければならない必然も存在しないということである。例えば映画(オペラ)を作る上で時代錯誤な次の例を考えよう。音響係がいちいち楽器を持っている人に指示を出して音楽や効果音を再生したり停止したりして、場面ごとのシーンを区切り、俳優にその時の音の意味を舞台装置のカメラの視線と合わせるように演出するということである。このことは機械に指示を出すとしても原則的にはほとんど何も変わらない。逆再生も機械的にはできるがカメラの連続性という自動化においてそれをすることはできない。誰かが指示を出して音楽の効果を演出している限り、意味内容は指示を出している人物の役柄の意味内容を示すことにしかならない。しかしもし音がプログラムで記述された指示に従って再生したり停止したりするとしたらどうなるだろうか。プログラムが指示しているということは機械が人間に指示を出しているような意味の音響になるということだろうか。明らかにまったくそうではない。ここで重要なのは、ゲームのプレイヤーのコマンド選択次第で音のシーンが切り替わるという演出をどのように考えるかであると思われる。

 ゲームには読み込みのラグと画面選択に戻るときの暗転との二種類のコマンドがあると仮定しよう。もし音楽が読み込みのたびに再生されるとしたらそれは常に開始地点からしか流れることができず意味を表すことができないし、かといって画面選択に戻るときとは別の場所から音楽を流してしまったらシーンを区切るという役割は時間を逆回しにしているというより手順を逆にして音楽を切断しているということにしかならないだろう。シーンをまたいだ音楽を作ることができないわけではないがそれはインターフェースの操作と読み込みの動機を打ち切ってラグそのものに音楽としての意味を与えることになってしまう。それは効果音としての役割と音楽の再生の論理を逆転させるという暴挙に等しい。結局のところゲームのプレイヤーにとって音の生成は世界に対して現前しているわけではないということを受け入れるしかない。しかしそれならば何が世界の現前に対して応答するのかと言えば、それは声のシニフィアンであって音声認識ではないということが重要である。音声認識のたびに画面が切り替わるとしたらこれ以上めんどくさいことはありえないしセキュリティの解除と音節性の入力が重なるとしたらさらに厄介なことになるからだ。このことの一つのトレードマークとして与えられるサインがイヤホンなのはゲームにとって偶然ではない。映画をイヤホンで見るというのは何か間違ったクリアさを音の意味に対して与えてしまうことになるだろう。映画において音は世界の視野の一部であり、したがって身体は例え画面から離れているとしてもその空間の広がりを示す特徴は領域的に囲い込まれていなければならないのに対して、ゲームにとっては音は幽体離脱した身体に直接的に響かせる音源としての意味を身体に与えなければ画面との操作を接続することができないのだ。もしアニメにおいてキャラクターの心情が全く表現されないのに音楽だけがただ流されて声がそれと無関係な内容を話していたとしたら完全にそれを遠巻きに眺めているしかできないだろう。映画において対立は視線の対立でしかないので、音楽はカメラの視線の不在性として身体に負荷を与えないやり方で音楽が視線の葛藤を解決するという風に演出される。ということはゲームの操作とアニメの展望を敵の行動に視覚的に同期させると、それを倒すための緊張感を与える音楽が効果音との対立として与えられるということである。そして敵はゲームにおいては原理的に操作入力に基づいて効果音の反応を通して音楽を再生するようにコマンドを選択するという介入によってシーンを切り替える視線が描画されるということになる。これをカメラと一致させるように解釈するというのは欲望と操作入力の観点が映画の音楽の入力では世界の視野と等しいのでなければならないという恐怖から生み出される幻影をプログラムの出力が「機械的に」行っているというように解釈されるということである。だがなぜこれはナンセンスなのか。コマンド入力のシニフィアンが写真の現前のカットと同じように入力しているとプログラムが解釈するのは意味の認知に関する出来事を機械が(人間的に)解釈できないと誤って理解していて、むしろ機械が自動化を学習するためには解釈に「うるさすぎる」というコンテクストの非人間性が理解されていないことに由来しているからだ。

 映画における声の現前の解釈はそれをうるさくないやり方で存在の事実として聞き分けることを他者の欲望の認知として要求するのに対して声のシニフィアンの説明とは識別子と命名規則を厳密に一致させなければならないということをスコープとして意味するのでなければならない。この事の違いをもっと単純に例えるなら、声の現前とは人がしゃべっているという事実そのものの認知である。口から声を出している存在は人間であって、人間に化けているエイリアンやロボットではないということを他者の伝聞を通じて可能な限り信頼できるやり方で参照しなければならない。一方で声のシニフィアンとは、人が言葉として発している声を意味する場所の構造のことであり、おしゃべりの内容の増殖性とは明確なやり方で区別される。この場合、「誰が」しゃべっているかということは問題ではなく、「何が」そのことについて話させているのかという行為が問題であり、それが行為の別の定義の表れであることを表象の代理としてコンテクストから推測する。これは信頼性についての可能性の議論ではなくて、定義の引数を巡るエラー出力の測定性の説明である。私はこう考える。これはゲームシナリオのルート分岐に関する適切なアナロジーに基づいていると。マルチエンディングのようなシナリオの結末が複数の解釈に枝分かれするというような議論を声のシニフィアンの時制から整合性を取るのには単に声の現前があるだけでは十分ではなく、声のシニフィアンに関するシナリオの読み込みが適切な推測に基づく声の解釈になっていなければならないということも要求している。

 まず最初にバッドエンドの可能性を考えよう。つまりキャラクターの声にそもそも耳を傾けないという可能性だ。画面の中にいる存在は映画のように単に即興であるにしろないにしろあらかじめ写真の内部にいる幻想の世界の現実との重なり合いを生きているのであり、だから声の現前は世界の崩壊とともに語られ、狂気の存在を証明し、身体とともにカメラからは視えなくなる。この場合、うるさいことは言わずに黙ってみていることだけが美しいシーンにおける声の現前を説明することになるだろう。そのことがいかに残酷であれ、声の存在は歌によって証明され、その主張は作品の名前とともに不死の記憶を生きるのだ。しかしそのことは我々が声の現前を幻想の位置にしか置いていないことを証明し、その映像が視る者の視線を写真の自動化として社会的に共有することを意味しているに過ぎない。これは映画の内容がいかに批判的な読解を要求するかどうかとはほぼ無関係である。ここで私は映画の声が無力な幻想だと主張しているのではなく、映画は声を介入させるのが幻想の狂気の証明における力の不在でしかないと主張しているのだ。だからこそそれは文字通りバッドエンドであり、プレイヤーの力不足をゲームの操作に対して説明しているのである。

 ではノーマルエンドの可能性とは何であるのか。それはキャラクターの声を願いの表出として未来の行為に現前させるということを意味している。とても単純な例を挙げるなら、たとえゲーム世界のキャラクターに対して出会ったとしても、その存在が「助けて」という意思表示をしているのなら、それは助けるべきであるし、我々は別の世界のプレイヤーであるとしても可能な限りそうした方がいいということだ。この発想の対比は、ゲームシナリオにおいて弱者を蹂躙する強敵のモンスターを撃破するという風に構造化され、それをコマンド入力に基づいて適切な行動をとることで対処することがシナリオをクリアするための条件ということになる。なぜこの説明が「ノーマル」なのか。それは「助けて」と声に出す存在がすべて助けるべき存在であるとどのように決定するかの選択をプレイヤーが時間が許す限り行為し続けるための機械性として問題を解決していることになるからだ。この説明は実際のところリクエストに応える行為のリソースの無限演算という無敵の身体を表現しており、だからこそ強敵のモンスターは「弱者」を蹂躙して世界を荒らしまわっているのである。つまりモンスターとはプレイヤーの「この」世界での複製の鏡像に過ぎない。もし別の世界のプレイヤーがこの世界のモンスターとして暴れ回っているのだとしたら、何を「助ける」ことが問題の解決であるのかよくわからない。声の現前が機能するのはこの領域でのことであり、映画と違って声の現前に介入することがストーリーの視線と同期しないということで意味しているのはこのことである。この場合、明らかにほぼすべての魔王と同じく力があり過ぎることが破滅の原因であるのだが、それは映画的な力不足を痛感したプレイヤーが「助けて」という声を聞き届けた結果として生成され続ける照準の自動化なのである。もしこの行為の反省から力の求めた代価を映像的な画面に封じることで問題を解決するとしたら、自分以外のすべての存在の声の現前を無視することを、広告的な願いのプリントの集約として悪夢を機能させ続けることになる。それは幸福な生存のハッピーエンドとして登場人物の非プレイヤー化を説明するだろう。

 トゥルーエンドの説明をすることはゲームにおける「真実」という言葉の意味を説明することでもなければならない。つまり「真実」とは写真に撮られるショットの機械的な自動化ではないということをシーケンスに対して説得しなければならない。このことを理解するには声の現前の願いが商品の金銭として代理=表象されるということをプレイヤーが把握しているかどうかが決定的な争点となる。これは「真実」を商品の金銭的な数量化と意味する代理性として声を考える限り、声を構造化することは不可能であるということを示している。もし金銭を投入するたびにプレイヤーが生き返って、敵を撃破して声の現前の願いを叶えるようなシステムがあると仮定しよう。もちろんこのゲームはアニメのキャラクターの身体のように復活することが一つの世界ではいくらでもできるというループ構造の事実を商品の金銭的購入の権利に置き換えることで声の現前を外部化しているとの反論を受けるかもしれない。しかしプレイヤーがゲームをやる労力が有限であるのならリソース演算に対する現前とはプレイヤーの願いの現前でもなければならず、なぜゲーム世界のキャラクターだけが願いを叶えてもらえるのか疑問に感じざるを得ないはずだ。ましてやなぜゲーム世界のキャラクター「に」願いを叶えてもらってはならないのか。もちろん当然の答えが出てくる。ゲーム世界とは「幻想」であり、それはプレイヤーが恣意的に動かすことができるためのインターフェースに過ぎないのだと。しかしなぜ映画の世界の声の現前は「幻想」でもその存在論的な事実を強調するのに対してゲーム世界の声の現前は「幻想にすぎず」、その操作の視点は否定されなければならないのか。それはゲームのプレイと金銭の構造の効率化が声のシニフィアンと切り離すことができないからだ。ゲーム世界の金銭の使用は「きりがない」。つまり金銭の使用の恣意的な性格が映画のような買い切りの性格と違って否定されなければならないということである。これをゲーム内資産のクレジットと混同しないようにしよう。ゲーム内資産のクレジットの使用は(少なくともある程度は)恣意的なものであり得る。それはゲーム内資産はプレイヤーキャラの復活と同じように時間的な生成要因として語られているからである。しかし課金としての貨幣の代理性は明らかに効率化されねばならない。そうでなければ現実の身体の演算リソースを否定することになるからだ。それゆえ「真実」とは貨幣は数量的に自動化されるものであってはならず、数学的に自動化されるものでなければならないということを視野の恣意性に対立して学習しなければならないということであり、それが声のシニフィアンの構造をキャラクターの身体にプレイヤーの音の現前として接続するものであるのだ。そうでなければどのような世界を救ったとしても、それは常に声の現前の商品=世界であり金銭的に数量化できる宣伝の力の代価ということになるだろう。声が意味する場所に表象としての構造が身体として定義されること、つまりセクシュアリティの現前が貨幣の恣意性と直接交換されることのない金銭的な効率化の自動性としてコンテクストが語られるのでないなら「真実」は闇の中に閉じ込められるままになるだろう。なぜゲームの音楽が闇が覆われているのか。世界の視野に対してキャラクターが金銭で所有されているにすぎず、プレイヤーが操作の意味をトレードオフの技術選択の学習として利用することが機械的な労働に貶められているからだ。貨幣をシニフィアンの構造と数量的に混同することが音の世界の意味の自律性を妨げているのだ。


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