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巡拝旅 序章:修学院離宮

参観許可メールにあった「約3kmの苑路を参観します。途中、坂道を上っていきますので、歩きやすい格好で参観されることをおすすめします」ー
たったこれだけの注意書きにも不安になってしまった私。

進行性の呼吸器疾患を抱えているため、人と同じペースで(山道や階段を)歩けるだろうか、途中咳込んでしまったらどうしよう…と。

でも! 自宅から恵方に名所旧跡・寺社が一直線上に並ぶミラクルを発見し、思い立った巡拝旅。きっと大丈夫、と令和6年6月6日、早朝に出発しました。

葦原よ しげらばしげれ おのがまま
  とても道ある世とは思はず
 
このような失意の歌を詠んだ後水尾上皇が、修学院離宮の造営主です。
いったい何があったのでしょうか。(以下、簡単に説明します)
 
朝廷に対する徳川幕府の圧力が強かった時代。後水尾天皇は、幕府による政略結婚で徳川秀忠の娘(和子)を中宮としました。幕府との関係が好転したかに見えた矢先、「紫衣しえ事件」(*)をきっかけに突如、譲位します。7歳の娘(徳川秀忠の孫にあたる)が明正天皇として即位しました。上皇はまだ33歳。

*紫衣事件:後水尾天皇が僧侶に与えた紫衣(僧侶がまとう法衣)着用の勅許を、幕府(徳川家光)が無効であるとし、これに抗議した沢庵たくあんらを処罰した事件。

仙洞御所に移り 学問に励みつつ 30年の月日を経た頃、念願の修学院離宮の完成が叶いました。
 
離宮とは言え宿泊施設ではありません。崩御となる85歳までの約20年間、上皇にとってここはお気に入りの日帰り旅行地だったようです。

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比叡山の山裾を徐々に登っていきます。下離宮・中離宮・上離宮 3つのエリアがありますが、その間には田んぼが風景として取り込まれています。

田植えが済んだばかりの田園

つがいの鴨が飛んでいたり、巨大なクロアゲハが舞っていたり… その時だけの光景を目に焼きつけながら歩きます。

上離宮に入る際、ガイドさんが「ここからは急な階段を上っていきます。頑張って上りきるとご褒美のような景色が見られます。体調が悪くなった方は遠慮なくおっしゃってください」。この時またチラリと不安が頭をよぎりましたが、きっと大丈夫!

最も高い位置にある隣雲亭からの眺め

最も高い位置まで上り詰めると、ほんとうにご褒美のような光景が広がりました。茶室「隣雲亭りんうんてい」からの眺めです。室内装飾など何もない簡素な茶室から見渡す北山連峰と、眼下に広がる浴龍池よくりゅうちは何よりの贅沢です。
軒下に腰かけて、汗だくになった身体を休ませ、呼吸を整えます。

この後浴龍池よくりゅうちをぐるりと巡っていくコースです。下りになったことと、川や滝の音を聴きながら 深緑の中を歩けたことで、清々しい気分になりました。

深山幽谷の趣。この橋を渡ると「窮𨗉(きゅうすい)」がある
御座所としての端正な美しさは感じるものの、驚くほど質素!

この「窮𨗉きゅうすい」だけが創建当時のままの姿で残されています。扁額「窮𨗉」(*)の文字は後水尾上皇の宸筆しんぴつ(直筆)です。
*「窮」は「極める」、「𨗉」は「(学問や真理など)奥が深いこと」 
上皇にとってここが一番のお気に入りだったそうです。

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この離宮は、豪華絢爛な建物や調度品の宝庫というイメージとはほど遠いものでした。
むしろ自然の風景に溶け込み、雄大な景色を借景とした庭園を堪能するために造られたようです。
平和な別天地を求めた上皇の理想郷だと感じました。

冒頭の“どうにでもなれ”という歌を残した上皇はまだ三十代。
念願の理想郷が成った後には、おそらく心境は大きく変化していたでしょう。
政治的権力を失くしたものの、むしろそのことによって学問や文化面で存分に遊ぶことのできた人生は幸せだったと思います。

歴史上の人物と同じ目線で、同じ風景を眺めることのできるゼイタク。
錦繍の季節に再びこの平和な別天地を訪れてみたいと思います。
少し負荷をかけて歩くことは心肺機能を高めてくれると確信できました。

 (ご参考までに)
参観の人数制限があるため、ここは観光公害とは無縁です。
私は朝一番(9時~)の部でしたので、外国人を含めわずか12名のグループでした。ツアーは1時間15分、3㎞のハイキングです。
宮内庁のサイトには動画もあり、美しい画像で全貌が分かりやすく説明されています。

 

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