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メンデレーエフと日本の関係

周期表の作成で有名なメンデレーエフ。
実は日本に孫が居たのをご存じでしょうか?

メンデレーエフ自身はロシア人と結婚し、数人の子供がいました。
長男のウラジーミルは海軍少尉となり、1891年に来日しています。
何のために来日したのか?
歴史好きな方ならお分かりだと思います。

1891年、ニコライ皇太子が来日します(後のロシア皇帝ニコライ二世。アジア諸国を訪問して回っていた)。
日本は国賓待遇で迎えました。
ニコライ皇太子を乗せたロシア軍艦に、ウラジーミルも随行していたんですね。
この訪日時、皇太子が警察官の津田三蔵にサーベルで切りつけられる事件が起きます(大津事件)。幸い、軽傷で済み、犯人は日本人車夫によって取り押さえられました。
このとき、ニコライの血で染まったハンカチなどが保管されました。
そして1991年、ソ連崩壊後にロマノフ一家の遺骨が掘り起こされ、DNA鑑定をする際に血のついたハンカチが使われました。ちょうど100年後に役に立つときが来るとは、保管した人も思わなかったでしょう。

ロシア旅行に行ったときロシア人のガイドさんが、革命でロマノフ王家が処刑されて断絶したため、ロシアに国を代表する王族が居なくなったは残念だと言っていました。

資料3

事件の起きた大津の通り(「ペテルブルクの歴史」日本特集号より)。
なんと、この写真を撮影したのはウラジーミル。ウラジーミルは写真の技術を持っていたそうで、訪日時に写真撮影の一部を担当していたことが分かっています。
また、この当時の様子を日本人が撮影した写真などが大津市歴史博物館に所蔵されています。

資料2

長崎訪問時のニコライ皇太子:向かって右側の正面を向いているのがニコライ(「ペテルブルクの歴史」日本特集号より)

話を戻しましょう。ウラジーミルは皇太子と共に訪れた長崎で龍の入れ墨に関心を持ち、腕に彫ったそうです。
そして、ウラジーミルは長崎でタカという女性と交際したと推測されています。
というのも、証拠となるのは二通の手紙のみだからです。
タカは、ウラジーミルとその父ドミトリ(周期表を作ったメンデレーエフ)宛てに二通の手紙を送っており、その手紙の内容から訪日時にウラジーミルと関係を持ったと考えられます。手紙は1893年と1894年に送られています。タカの手紙はロシア語に精通した人に翻訳してもらったようです。

手紙によると、ウラジーミルが去った後にタカは一児を出産しますが、その子はウラジーミルとの間に出来た子で、ウラジーミルそっくりだと触れています。富士山にあやかって富士と名づけたとも。その娘(お富士)を養うために240円の借金をしている、連絡が欲しい、と述べています。
当時の240円はかなりの額です。
メンデレーエフ(ドミトリ)のタカとお富士に対する言葉などは記録に残っていませんが、娘のオリガ(ウラジーミルの妹)が残した記録によると、メンデレーエフはタカに定期的に送金していたそうです。
また、タカとお富士は東京の地震で亡くなったとあります(長崎から東京に移り住んだのでしょうか?)。
この地震が明治東京大地震(1894年, 樋口一葉の「水の上日記」に被害の様子が記録されています)のことなのか、関東大震災(1923年)のことを指しているのか、はっきりとしたことは分かりません。
ちなみに、ウラジーミルは1898年にインフルエンザで亡くなっています(33歳)。
父のドミトリが亡くなったのは1907年です(72歳)。
関東大震災で亡くなっていたとしたら、お富士に子供が居た可能性もあります。

下の写真は、メンデレーエフ博物館に所蔵されているもので、タカがウラジーミルに宛てた手紙に同封されていたという写真です。

資料1

「ヒデシマ タカとその娘フジ」とロシア語で表記されています(「ペテルブルクの歴史」日本特集号より)

ヒデシマという苗字の方だということが分かります。
ただ、それ以上の事は分かっていません。

孫の生まれた日本で、100年以上後に新元素ニホニウムが発見されことを知ったら、メンデレーエフは何を思ったでしょうか?


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