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高分子化学の父 シュタウディンガー

1953年のノーベル化学賞は、ドイツの化学者 ヘルマン・シュタウディンガーに贈られました。
受賞対象となったテーマは「鎖状高分子化合物の研究 」です。
高分子の発見」と言い換えても間違いではないでしょう。
分子が数千~数百万繋がった高分子は、プラスチック(樹脂)製品やゼリーなどのゲル、天然ゴムや植物・動物の細胞など、あらゆるところに存在し、私たちの生活を支えています。

20世紀初頭、分子の沢山つながった高分子という考え方は存在しませんでした。
その頃は、ようやく分子の考え方が化学界に普及したばかりでした。
そんな中、高分子の考え方を提唱したのがシュタウディンガーです。

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   ヘルマン・シュタウディンガー(Wikipedia)

シュタウディンガーとドイツの化学

ヘルマン・シュタウディンガーは1881年にドイツ帝国のヴォルムスに生まれます。父はギムナジウム(今の日本の中高一貫教育に当たる教育機関)の先生でした。
子供の頃から植物に興味があったシュタウディンガーは、ギムナジウムを出た後、植物学の道に進もうと思いました。しかし、それなら化学を学んでおくのが良いと親に勧められ、研究所で化学分析の仕事に就きました。
1900年、シュタウディンガーはミュンヘンにあるアドルフ・フォン・バイヤーの研究室で1年間化学を学びます。

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         アドルフ・フォン・バイヤー(Wikipedia)

バイヤーはアウグスト・ケクレと仲の良かった化学者で、1905年にノーベル化学賞を受賞します(有機染料とヒドロ芳香族化合物の研究)。ケクレは複数の炭素が繋がった鎖状構造や、ベンゼンの六員環を提唱した偉大な有機化学者です。
そして、バイヤーの研究室にはリヒャルト・ヴィルシュテッター(1915年ノーベル化学賞:植物色素の研究)が在籍していました。後に、ヴィルシュテッターはシュタウディンガーの研究を大きくアシストすることになるので、名前を覚えておいて下さい。

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       リヒャルト・ヴィルシュテッター(Wikipedia)

当時のドイツは化学の最先端を行き、数多くの優秀な化学者が登場、化学の礎を築いていました。
シュタウディンガーがバイヤーの研究室に居た頃、例えば以下のような化学者が活躍していました。
〇エミール・フィッシャー(1902年 ノーベル化学賞:糖類およびプリン誘導体の合成 )
〇オットー・ヴァラッハ(1910年ノーベル化学賞:脂環式化合物の研究)
〇ヴィルヘルム・オストワルド(1909年ノーベル化学賞:触媒作用・化学平衡や反応速度について)
〇エドゥアルト・ブフナー(1907年ノーベル化学賞:発酵の化学・生物学的諸研究)
〇フリッツ・ハーバー(1918年ノーベル化学賞:アンモニア合成法の開発)
〇ヴァルター・ネルンスト(1920年ノーベル化学賞:熱力学第三法則の発見)。
その少し前までは、前述したケクレや化学教育の基礎を確立したリービッヒ、数多の化学反応や法則を発見したホフマン(ホフマン転位、ホフマン脱離、ホフマン則など、何れもホフマンの名が付いている)らが化学を大きく前進させました。
化学に携わっている方なら、ほとんどの名前に見覚えがあると思います。実験器具や装置にも名前が残っていますね(オストワルド粘度計、リービッヒ冷却器、ブフナー漏斗など)。
*実は、ブフナー漏斗を発明したのは同時代に活躍した化学者エルンスト・ビューヒナー(ドイツ)で、名前を取り違えられた結果、ビューヒナーではなくブフナーになってしまいました(^^;)

バイヤーの研究室で学んだシュタウディンガーは元居た研究所に戻ります。その研究所で学位論文を書き、1903年に学位を取得します。
1903年、ヨハネス・ティーレ(化学者)の元で助手となったシュタウディンガーは、世界で最初のケテン(ジフェニルケテン)を発見し、数年後、この業績によって教授になります。26歳の若さでした。

巨大分子の研究

1912年、スイス連邦工科大学に移ったシュタウディンガーは、ゴムやゴム状の物質に興味が湧き、その研究の面白さに惹かれて行きます。
当時、ゴムなどの高分子は「ネバネバした汚い物質」という見られ方をしていました(高分子と表現しましたが、当時は高分子と言う単語も考え方もありません。)。
シュタウディンガーはイソプレンの重合(じゅうごう)、天然ゴムやポリスチレンの構造の研究を行い、1920年にそれらの研究成果をまとめた「重合について」という論文を発表します。
この論文の中で、当時信じられていた「重合物質は単分子の集合体」という考え方を否定し、下記のような「分子が共有結合で多数繋がった鎖状構造」を提唱します。

スケッチ-115

この論文発表以降、シュタウディンガーは高分子の存在と構造を証明することに心血を注ぎます。

シュタウディンガーは、最初にゴムの構造解明に取り組みます。
当時、ゴムは小さな分子が会合したものと考えられていました(会合体説)
会合(かいごう)とは、同じ種類の分子が水素結合や分子間力などの弱い結合によって集まり、一つの分子としてふるまうことです。
もしその説が正しいなら、ゴムを構成しているイソプレン分子を水素化して二重結合を取り除けば、会合状態は崩れて分子はバラバラになると考えられます。そうなれば、蒸留することが可能になります。

スケッチ-117

ゴムの水素添加実験(250℃, 100気圧の条件で実施)を行ったシュタウディンガーは、それが蒸留出来ない事、そして元のゴムと同じ性質のもので、溶媒に溶かすとコロイド溶液になる事を確認します。
また、このコロイド粒子は、分子が共有結合でたくさん繋がった巨大分子(高分子)のかたまりだと主張しました。

スケッチ-118

分子が分子間力のような弱い結合で集まったものではなく、ケクレが主張した鎖状構造のように、分子が原子間で強く繋がっている、すなわち、共有結合だと確信します。
さらに、シュタウディンガーはポリ酢酸ビニルを使った実験を行います。
ポリ酢酸ビニルを加水分解してポリビニルアルコールを作り、それを再び酢酸化させます。この反応の過程で溶液の粘性が変わらない事を示しました。
ポリ酢酸ビニルは、以下の図のように酢酸ビニルを重合して作るもので、そこから洗濯のりやフィルムなどに使うポリビニルアルコールが作られます。

酢ビとPVA

この実験は重合度の変わらない「等重合度反応」ですが、反応の前後で粘性が変わらないという事実は大きく、巨大分子説を強く支持するものでした。

しかし、当時の著名な有機化学者たちはシュタウディンガーの説に真っ向から異を唱えました。
それに対し、シュタウディンガーは実験結果を示しながら反論します。
1925年、チューリッヒの化学会でシュタウディンガーは講演を行いましたが、出席者全員から反対されました。それでも、積み重ねた実験結果から巨大分子の存在に確信を持っていたため、自分の主張を曲げる事はなく、毅然とした態度で反論しました。

巨大分子を巡る論争と高分子化学の誕生

1926年、ハインリッヒ・ヴィーラント(1927年ノーベル化学賞:胆汁酸の研究)の後任としてフライブルグ大学に招聘されたシュタウディンガーは、ヴィーラントから「巨大分子というのは存在しません、あなたの研究しているゴムなどの物質を精製すれば結晶化し、小さな分子であることが明らかになるでしょう」という内容の手紙を受け取ります。
当時の有機化学では分子量に上限があると考えられており、シュタウディンガーの主張は到底受け入れられるものではありませんでした。ヴィーラントほどの実力者でも、それは同じでした。
そんな中、この1926年にデュッセルドルフで行われた「ドイツの自然科学者および医学者協会」第89回年会で転機が訪れます
多くの化学者が分子の会合体説を主張する中、最後に登壇したシュタウディンガーは、ポリスチレンなどの合成物質の水素添加と脱水素化実験・粘度などのデータを示しながら巨大分子説を提唱します。
巨大分子の鎖状構造を示し、セルロースなどの天然高分子も同様の構造だと主張します。
またもシュタウディンガーの説は強く否定され、四面楚歌のような状態でした。
しかし、講演が終わった後、司会を務めていたヴィルシュテッター(バイヤーの研究室に1年間在籍した時に居た化学者)は、シュタウディンガーの数多の実験データと論理的な説明に対し
「有機化学者の私にとって、分子量が十万を超える巨大分子と言うのは信じ難いが、シュタウディンガー教授の報告から、私たちはその考え方に適応していく必要があると思います。」
とコメントしました。
著名なノーベル化学賞受賞者の発言と、シュタウディンガーの示した実験結果の影響は大きく、この学会以降、シュタウディンガーを支持する化学者が増え始め、また、巨大分子(以降、高分子と表記します)の存在を証明する研究成果も各所で発表されるようになります。
この1926年の学会(討論会)は、高分子化学の歴史上最も重要なもので、ここから高分子化学が始まったと言っても過言ではないと思います。
このとき、シュタウディンガーは45歳でした。

その後もシュタウディンガーは重合度の変化とそのX線回折図を調べるなどし、高分子の存在を裏付ける実験結果を出し続けます。
そして、高分子溶液の粘度は分子量に比例すると発表し、それを示す粘度式を作ります。
当時の研究環境では高分子の詳細な分析をすることは困難でしたが、シュタウディンガーは一つずつ結果を積み重ねていきました。
1930年、フランクフルトで開催されたコロイド学会では、高分子説を支持する化学者が過半数を占めていて、反対論者は少数になっていました。
この学会に参加していた桜田一郎(ビニロンの発明者で、日本の繊維化学・高分子化学の父)は「低分子説(会合体説)に終末がきたという感を深くした」と回想しています。

1935年、米国の化学者ウォーレス・カロザースは英国の講演会でポリアミドとポリエステルの合成研究について発表しました(シュタウディンガーもこの講演会で高分子説について話しました)。
その研究はシュタウディンガーの高分子説に基づいて行ったもので、カロザースの研究成果によって高分子説は確固たるものになりました。

高分子説に関する論争は1936年まで続きましたが、最後はシュタウディンガーがドイツ化学誌に高分子の総説を投稿し、それを受けた化学誌編集部によって終止符が打たれました。

余談ですが、カロザースは世界初の化学繊維ナイロンの発明者で、化学メーカー「デュポン」の研究者でした。
有名な話なのでご存じの方も居られると思います。
カロザースは若いころからうつ病を患っていて、残念ながら41歳で服毒自殺をしました(同年に妹が肺炎で死去したことも影響したと言われています)。
また、ナイロンはデュポンの企業秘密だったため、無名のままこの世を去りました。生前、報われることはありませんでしたが、ナイロンの発明だけでなく、高分子化学の黎明期を支え、発展させた偉大な化学者だと思います。

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ネオプレンの実演をするウォーレス・ヒューム・カロザース(Wikipedia)

高分子化学の発展と来日

1933年、ドイツでナチ党が台頭すると、思想を異にするシュタウディンガーは教授職の辞職を強要され、申請していた高分子化学研究所の申請も却下されます。
しかし、シュタウディンガーは既に世界的な名声を得ていたため、海外からの批判を恐れて辞職は撤回されました。
そして、1940年には高分子化学研究所の設置が認められます。
1947年、戦争によって発行が中断されていた高分子に関する雑誌に代わり「高分子化学」という専門書を刊行します。
1951年、フライブルグ大学の教授を定年退職しますが、シュタウディンガーの研究所は高分子研究所となり、退職後も指導を続けました。

1953年、シュタウディンガーは高分子研究の業績によってノーベル化学賞を受賞します。その頃には様々な高分子が合成され、ポリエチレンやポリプロピレン、ポリビニルアルコールを使った樹脂製品や化学繊維が普及し始めていました。
1957年には日本の高分子学会の招待により夫婦で日本を訪れ、講演を行いました。準国賓待遇として迎えられたシュタウディンガーは、昭和天皇に拝謁しています。そのとき、昭和天皇から次のような質問を受けました。
「巨大分子説は多くの現象を説明するための単なる考えなのですか、それとも、その存在には厳密な科学的証拠があるのですか?
もしあるとすれば、どんな方法によってですか?」
これは極めてシンプルかつ重要な質問で、シュタウディンガーは強い感銘を受けたと回想しています。
ちなみに、この質問に対して前述した等重合度反応の話をし、科学的証拠を示したそうです。
残念ながら、このシュタウディンガーの来日を取り上げたメディアは皆無に等しく、国民に知られることはありませんでした。

1965年、シュタウディンガーはフライブルグで84年の生涯を閉じます。

生前、シュタウディンガーは高分子について、自分のやったことは高分子化学のほんの初めに過ぎず、その先は計り知れないという事を言っています。
まさにその通りで、高分子化学は大きな発展を遂げ、数多くの専門分野が誕生しました。天然高分子や合成高分子だけでなく、生体高分子(タンパク質)、無機高分子(セラミックス)とその範囲は多岐にわたります。
そして、高分子化学は今も進化を続けています。

参考文献:「高分子」31巻 10月号(1982年)、「高分子」31巻 12月号(1982年)、「高分子」50巻 5月号(2001年)


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